漢文をしっかり学びたい人には『全訳漢辞海』がおすすめ

概要
漢文学習において非常に有用な辞典である『全訳漢辞海』の紹介。この辞典は漢文を読解するために必要な文法などの情報がしっかり書かれている。

漢文学習に役立つ辞典

漢文とは古典中国語の文法に従って漢字を書き連ねた文章のことである。『論語』や『孟子』、『史記』や『漢書』といった有名な中国古典はみな漢文で書かれている。また、日本の古典においても『日本書紀』をはじめとする六国史はみな漢文で書かれている。さらに、仏教の教典についても日本では伝統的に漢文で書かれたものが使われてきた。

このため、中国古典を理解するだけでなく、日本の伝統文化をしっかりと理解するためには、漢文を読めるようになることが不可欠になる。漢文が読めなければ、古典を深く理解することはできないのだ。

漢文を読むときに大いに助けになるのが、漢和辞典である。漢和辞典を使えば、漢文の中に出てくる漢字や熟語について調べることができる。

現在、日本ではさまざまな漢和辞典が出されている。だが、残念なことに、一部の漢和辞典は漢文を読むときに役に立たないものがある。いいかげんに辞典を選んでしまうと、こうした役に立たない辞典に当たってしまう可能性がある。

では、どの辞典を選べばよいのだろうか。私は、漢文をしっかり学びたい人に対しては『全訳漢辞海』という漢和辞典をお勧めしている。あとで説明するように、この辞典は多くの優れた特徴を有しており、漢文を学ぶ際にとても役立つのだ。

全訳漢辞海』の初版は2000年に出た。今は、2011年に出た第三版が最新版である。版を重ねるごとに辞典として洗練されてきているので、ぜひ最新版を手に入れよう。

古典中国語という外国語を理解するための辞典

漢文は、現代の日本語とは全く言語で書かれている。もちろん、漢文を読むときに、現代日本語の漢字の知識が役に立たないわけではないが、別個の言語で書かれている以上、限界がある。漢文はあくまでも外国語であり、読み解くにはそれ相応の準備が必要であるという立場に立っているのが、この『全訳漢辞海』である。

全訳漢辞海』は、古典中国語という日本語とは別の言語体系を持つ言語を理解するという目的のもとに作られており、実際、そのあたりの工夫がしっかりなされている。例えば、後で説明するように、古典中国語の文法の説明がしっかりなされているし、文法をもとに文章を理解するために必要な品詞の情報もこの辞典にはしっかり書かれている [1]

文法の説明

この辞典には付録として「漢文読解の基礎」というものが載っている。これは、古典中国語の文法に関する優れた解説になっている。どのように文を理解すればよいのかについて、36ページにもわたる説明がなされている。この付録だけでも価値が高い。

これだけでなく、漢文の文構造を理解するときに重要となる助字の用法についても詳しく正確に書かれている。

また、この辞典の特徴として、品詞が明記されていることが挙げられる。ある字が動詞として用いられるのか、名詞として用いられるのかが、はっきり書かれているのである。古典中国語に限らず外国語を学ぶときには、品詞が分かれば、文章の構造が理解しやすくなる。しかし、今までの漢和辞典には品詞の情報が書いていないものが少なくなかった。品詞を明記しているという点で、『全訳漢辞海』は他の辞典より優れていると言える。

また、古典中国語では、名詞が動詞として使われるようになったりするなど、普段とは別の品詞で使われることがしばしばある。この辞典では、名詞が動詞として使われることがある字については「動詞化」と明記するなど、別の品詞として使われる現象についてしっかりと説明している。この点もこの辞典の優れた点である。

以上の点をまとめると、『全訳漢辞海』は、漢文を古典中国語という1つの外国語として捉えたときに、その文法を理解するために必要な説明がしっかりと記述された辞典であると言えるだろう。

良質な例文

全訳漢辞海』は、漢文読解をするに当たって、実に良質な例文を選んでいる。また、「全訳」という書名にたがわず、例文には必ず書き下し文と現代日本語での訳が書かれている。今までの漢和辞典で、このように例文にしっかりと訳がついているものはあまりなく、その点でもこの辞典は優れている。

例文の訳を挙げるにあたっては、原文となっている漢文では明確に書かれていないことについて、かっこ書きで説明を加えて理解しやすいようにしている。例えば、「狼跋其胡」という句の訳として「(老いた)オオカミは(進もうとすると)あごの下にたれた肉を踏む」 [2] と書いてある。引かれた部分の原文には「老いた」ということは書かれていないのだが、前後の文脈を踏まえてこのような内容が書かれている。限られたスペースの中で、しっかり理解させるためのしくみであろう。

また、これは私個人の感覚レベルの話に過ぎないのだが、漢文を読んでいてつっかえる表現があったときにこの辞典を引くと、かなりの場合でこの辞典に説明が載っていたり、似たような例文が出てくる。この辞典の編纂者が中国古典の用例をよく調べて用例や釈義を記したことがうかがえる。

なお、漢字や熟語の説明では、他の漢和辞典と同様に、ある語の意味が日本語特有のものであるかどうかを明確に記している。どうしても、日本語での漢語の理解と、古典中国語での漢語の理解はずれが生じるところなので、この内容が明記されているのは学習者にとってうれしいところである。また、日本で書かれた漢文を読むときに、日本語特有の意味が明記されていると読解に役立つ。さらに、古典中国語では存在しなかった意味が、近現代に日本語から中国語に入った場合は、そのことが明記されている。これは、近現代に中国で書かれた漢文を見るときに参考になる。

音と漢詩

漢字の意味だけでなく、漢字の音についてしっかりと書いてあるのもこの辞典の特徴である。

まず、唐代の中国で漢字がどのように発音されていたかが、しっかりと書いてある。この記述があるために、漢詩を作る人にとってもこの辞典は役に立つ。日本で漢詩を作る場合、絶句・律詩という形式の詩を作ることが多い。これらの形式の詩では、漢詩としてのリズムを作り上げるために、韻を踏んだり、声調を合わせたりする必要がある。このとき、必要になるのが、漢字が昔の中国語でどのように発音されていたかという情報である。その情報がこの辞典にはしっかり書かれているので、漢詩を作る人にも使える辞書となっている [3]

また、漢詩に関して言うと、付録に「中国古典の文体・詩律」という文章が載っており、そこに絶句や律詩を作るときの音韻に関する決まりごとが書かれている。

このほか、日本語での漢字音についても、古辞典の分析を進めて、もっともらしい音を選択している。

現代中国語での漢字音も当然掲載されている。一般の人にはあまり役に立たないかもしれないが、旧読と呼ばれるやや古い現代中国語の漢字音も載っている。

豊富な付録

全訳漢辞海』には、巻末に豊富な付録が載っており、それぞれ漢文を読み解く際の良質な資料となっている。

先にも挙げた「漢文読解の基礎」は、古典中国語の文法の説明がコンパクトにまとめられており、有用である。また、「訓読のための日本語文法」は、漢文の読み下し文を作るときの注意点についてまとめている。このような注意がまとめられた文章は他にはなかなかないので、かなり役に立つ。

電子版など他のフォーマット

全訳漢辞海』は、紙の書籍として販売されているだけでなく、 iOS 用アプリとしても販売されている。販売元の説明によると、手書き検索もできるとのことである。紙の書籍より、電子版の方がやはり検索はしやすいだろう。

2015年11月27日現在、iOS 用の全訳漢辞海は、App Storeで3,000円で販売されている。

なお、iOS 以外の環境で使える電子版の『全訳漢辞海』はまだ存在していないようである。個人的には、PCなど iOS 以外の環境でも電子版があれば、ぜひ買いたいと思っているのだが。

また、紙の書籍の『全訳漢辞海』には、活字が大きいものも売られている。目が悪い人はこちらを買ってもよいかもしれない。

脚注
  1. これに対して、他の漢和辞典の中には、漢文が日本語とは別個の言語であるという意識が薄く、そうした文法に関する事項や品詞に関する情報に欠けるものも少なくない。 []
  2. p.1369「跋」字の解説より []
  3. もっとも、まともな漢和辞典ならば、漢詩を作る際に必要な音の情報は書かれていることが多い。 []