中国語のプロになりたいのなら、中国古典をよく学んでおくべきだ

概要
現代中国語の使用に当たっては、中国古典に関する知識が要求されることが少なくない。このため、中国語を本格的に使いたい人は、中国古典についてよく学んでおくべきだ。

はじめに

中国語の翻訳者になったり、中国報道に関わるジャーナリストになったりするなど、中国語を本格的に使うことを考えている人は、現代中国語の勉強と並行して中国古典をよく勉強しておくと良い

なぜか。現代中国語の表現の中には、中国古典に由来する表現が相当含まれている。中国古典をしっかりと学ぶことなしに、古典からの表現のニュアンスをしっかり理解するのは難しい。中国語に少し慣れ親しむだけで良いという人であればそうでもないかもしれないが、中国語のプロになりたい人であれば中国古典を学ぶことは重要である。

現代の中国語で用いられる古典

中国共産党のプロパガンダ(2017年5月上海にて撮影)。右下に書いてある“以和为贵”(和ヲ以テ貴シト為ス)は、『礼記』儒行篇にある言葉や『論語』学而篇にある同旨の言葉に由来する。
中国共産党のプロパガンダ(2017年5月上海にて撮影)。右下に書いてある“以和为贵”(和ヲ以テ貴シト為ス)は、『礼記』儒行篇にある言葉や『論語』学而篇にある同旨の言葉に由来する。

現代の中国語において、中国の古典が用いられることは少なくない。例えば、中国共産党の習近平総書記がロシアとの関係についてスピーチしたときに、“亲仁善邻,国之宝也”(仁ニ親シミ隣ト善クスルハ、国ノ宝ナリ)という言葉を引いている [1] 。これは『春秋左氏伝』の隠公六年が出典である。また、習総書記が2018年の旧正月にあたってスピーチしたときには、『孟子』離婁上篇から“天下之本在国,国之本在家”(天下ノ本ハ国ニアリ、国ノ本ハ家ニアリ)、唐代の詩人の劉禹錫の詩から“芳林新叶催陈叶,流水前波让后波”(芳林ノ新葉 陳葉ヲうながシ、流水ノ前波 後波ニ譲ル)という言葉を引いている [2]

習近平総書記だけがこうした古典の言葉を引いてくるのではない。米国が中国への貿易制裁措置をとったことに対し、中国外交部の報道官が“来而不往非礼也”(来タリテカザレバ礼ニアラザルナリ)という『礼記』からの言葉を引いたこともある [3]

政治以外の場面でも古典が引かれることがある。例えば、2018年の平昌冬季オリンピックで、羽生結弦選手のフィギュアスケートの演技を讃えるために、中国中央テレビ局 (CCTV) のキャスターが“翩若惊鸿,婉若游龙”(へんタルコト驚鴻ノゴトク、ゑんタルコト游竜ノゴトシ)という言葉を引いた [4] 。これは、三国時代の魏の曹植の「洛神賦」の一節である [5]

このように、現代の中国語の中でも、中国古典が用いられる場合は存外あり、細かいニュアンスを理解するにはしっかりと中国古典を知らなくてはならないのだ。

古典の知識がないと困る場合

ただ、古典の知識がないとニュアンスが分からないということについて、ピンと来ない人もいるだろう。このあたりの感覚は、実際に中国語を使いこなせる人でないと理解しにくいところではある。

説明のために、あえて現代日本語において日本古典の知識が必要になるシーンを考えてみたいと思う。

かつてサントリーが「春はあげもの」というコピーの広告を出した。この短いコピーだけでは、どんな言葉が省略されているか見当がつかない。「春はあげものが有名だ」を略しているのかもしれないし、「春はあげものが良い」を略しているのかもしれないし、はたまた「春はあげものがまずい」を略しているのかもしれない。

しかし、このコピーが『枕草子』の「春はあけぼの」をもじったものであることが分かると、「春はあげもの」の意味の理解が容易になる。『枕草子』の中では「春はあけぼの」という言葉で、「(一日の中の時間帯について言えば、)春はあけぼのが一番良い」ということを示している。ここから、「春はあげもの」は、「春はあげものが一番良い」という意味になることが類推できる。

日本語でも、古典の知識がないとこういったニュアンスが分からないのだ。現代中国語でも同様に、いや日本語以上に、こうした古典の知識が要求される場面が出てくるのだ。だから、中国語のプロになりたいなら、中国古典を学んでおいて損はない。

先に、習近平総書記が『孟子』離婁上篇から“天下之本在国,国之本在家”(天下ノ本ハ国ニアリ、国ノ本ハ家ニアリ)という言葉を引いたと述べた。正直なところ、『孟子』から引いた言葉であると分からなくても、字面を追えば「天下の基礎となっているのは国で、国の基礎となっているのは家なんだな」といった意味は何となく分かる。だから、古典の知識がなくても分かるから問題ないのではないかと思ってしまう人もいるかもしれない。

しかし、『孟子』を見ると、実はこの後に“家之本在身”(家ノ本ハ身ニアリ)という言葉もある。習総書記は、この部分を引かなかったのだ。『孟子』では「家ノ本ハ身ニアリ」というところまで述べることで、「天下の基礎となっているのは究極的には個々の身である」という議論をしている。この議論が、習総書記のスピーチでは家が究極的な基礎であるように変わってしまっている。このことに着目することができれば、なぜ習総書記は身でなく家を基礎とするような議論にしたのか、とより深い問いを作り上げることができる [6] 。古典の内容を把握していれば、さらに一段深い思考を作り上げることができるのだ。

中国語話者と渡り合える教養を身につける

また、きわめて単純に言えば、中国語圏は古典を知っていれば尊敬される地域である。前近代ほどはなはだしくないにせよ、適切に古典を用いることが評価されるのだ。

例えば、先に習近平総書記がスピーチで古典から引用している例をいくつか挙げた。ここに挙げた例だけでなく、現代の中国共産党の指導者が演説をする場合、古典からの引用が多数含まれることになる。なにしろ習総書記が引いた古典からの引用をまとめた《习近平用典》という本が出版されているぐらいなのだ。これは何もむやみやたらに引用しているのではない。古典を適切に用いた方が評価されるという社会の有り様を反映している面があるのだ [7]

日本の感覚だと、このあたりのことが理解しにくいかもしれない。あえて日本で考えてみると、字がうまいかどうかで、尊敬されるかどうかが決まってくることが挙げられるだろうか。例えば、政治家が揮毫をするときに、その字がうまければ「○○先生はさすがですね」ということになるし、その字が下手ならば「××はだめなんじゃないか」ということになる。ただ、政治家の字がうまいかどうかは、国民の生活を良くできるかどうかと本来関係ない話だ。字が下手でも国民の生活を良くできれば、政治家としては申し分のないはずだ。しかし、現実問題として、字がうまければそれで評価される面もある。

それと同じような感じで、中国語圏では古典を適切に引っぱってくることができれば、それで評価されるところがあるのだと思われる。

だから、中国語のプロになる人は、中国古典をしっかり知って運用できるようになれば、中国語話者から一目置かれることになる。引いては、中国語を用いて交渉したり議論したりするときの助けにもなる [8]

ところで、たまに「オレは中国で仕事するときに中国語をバリバリ使っているけど、古典なんか全然関係ないぜ」と豪語する人がいるが、そういう人は結局のところ中国語と浅い付き合いしかしていないだけだ

実のところ、日常的な話題をこなすだけであれば中国古典はあまり関係ない。単に観光に使ったり、ビジネスでちょっとした会話を中国語で行ったりするという程度であったら、別にわざわざ中国古典を勉強する必要はないかと思う。

しかし、先に述べたような理由で、中国語のプロとしてやっていくには中国古典の知識が不可欠だ。中国人の全員がちゃんと中国古典を知っているわけではない。しかし、社会の上層にある人や知識人は古典をそれなりにしっかりと理解している。そういった人たちの古典に対する知識を喚起するように中国語が操れれば、交渉ごともうまくいく。中国古典を学ぶことは、中国語話者と渡り合える教養を身につけるにつながるのだ。

具体的な勉強法

今まで中国古典を勉強しておくと良いと書いてきたが、具体的にはどう勉強すれば良いだろうか。

手間はかかるかもしれないが、私としては実際に中国古典を読んでみるのが良いと思う。学問に王道なしである。幸いなことに、『論語』や『史記』をはじめとして、主要な中国古典の日本語訳本は容易に手に入れることができる。

なお、古典中国語で書かれた原文がついている本を手に入れた方が良い。日本語訳だけでは実際に中国語で何と言うか分からないためである。最初から原文を読むのは大変かもしれないが、まずは日本語訳を参考にしつつ、徐々に原文にも慣れ親しんでいけば良い。

『論語』は色々な日本語訳本が出ていて、その中には訳者の独自の見解が展開されたあやしい訳本もある。オーソドックスなところで、岩波文庫の『論語』を読むのがよいと思う。論語に限らず、岩波文庫・講談社学術文庫や明治書院の新釈漢文大系あたりならば大体ちゃんとした訳本である可能性が高い。

詩に関しては、岩波文庫の『中国名詩選』や『新編 中国名詩選』という本が役に立つ [9] 。これらは、上古以来の有名な詩 [10] を色々と集めた本であり、古典中国語の原文も日本語訳も載っている。中国の歴代の詩の中で知っておくべき詩を知る際に有用である。なお、『中国名詩選』と『新編 中国名詩選』は収録されている詩が少しずつ異なっている。私個人としては『中国名詩選』』のチョイスが好みだが、こちらは今では新刊書店では手に入れることが難しいと思う。図書館で読むか、古本屋で買おう。

散文に関しては、『古文観止』という中国古典の名文集がある。これは周代から明代までの名文を集めたものだ。この本に載っている文章が、中国語圏の中高生の国語の教科書に引かれることも少なくない。ただ、残念ながらこの本の日本語訳はないようだ。中国では、中華書局から出ている版本などが売られている。日本のアマゾンで手に入る『古文観止』もあるようだ。

また、中国では、現地の小中学生向けに覚えておくべき古典の文章をまとめた詞華集アンソロジーが色々と出ている。こうした詞華集は“小学必背古文”——“背”は「暗記する」の意味——といった題名がついていることが多い。こうしたものを読むのも参考になる。実際に中国人が大人になるために知っておくべきだと考えているものが収められているためだ。

古典中国語の文法・語法に慣れる

中国古典を読む際には、古典中国語の文法・語法に慣れておく必要がある。

また、古典からの引用に限らず、普通の現代の中国語の文章の中に古典中国語の文法・語法に基づく表現が入ってくるということがある。一例を挙げてみよう。現代中国語の普通の会話では、「もし」の意味を表すのに“如果”という表現を使う。現代中国語の文章でもこの“如果”を使うことはできる。しかし、時として文章の中で、古典中国語的な表現である“若”を代わりに使うこともある。例えば、「もし興味をもたなかったら」という意味で、現代中国語(の話し言葉)的な“如果不是感兴趣”を用いることもあれば、古典中国語的な“若非感兴趣”を用いることもある。また、中国語の文章で「とても簡単」と書くときに、現代語風に“非常容易”とする代わりに、古典風に“颇易”とすることもある。こうした古典中国語に基づく表現は、何か古典から引用されてきたというわけではなく、現代人が新たに古典中国語の文法・語法に基づいてつづったものなのだ。

このようなことがあるから、現代中国語の運用能力を高めるためにも、古典中国語の文法・語法に慣れておく必要がある。

なお、現代の中国語の中で使われる古典中国語的な表現を勉強できる教科書として、《汉语书面用语初编》 という本がある。これは外国の中国語学習者向けに、さまざまな古典中国語的表現を紹介したものであり、例文の英訳もついている。

実際に使用されている古典の表現を味わう

あとは、実際に現代中国語の中で古典が使われている例を見つけて、自分なりに味わうことが大事になると思う。それが、現代の中国語でどのように古典が使われるかについて理解する際の1つの指標になる。

現代中国語の文章で古典中国語風の言い方をしている場合は、何らかの出典があるのではないかとを疑うとクセをつけておこう。自分がその出典となる古典を読んだことがなくても、フレーズをインターネットで検索すれば、出典は大体分かる。とはいえ、古典に慣れていない状態だと、その出典がどういう位置づけのものなのか理解できない可能性がある。ネット検索だけでどうにかなるわけではなく、あくまでもコツコツと古典を学んでおく必要があるのだ。

まとめ

今までの説明をまとめておこう。

脚注
  1. 凤凰网.(2013年3月23日).习近平谈中俄关系:亲仁善邻 国之宝也. []
  2. 习近平.(2018年2月14日).在2018年春节团拜会上的讲话. []
  3. “来而不往非礼也”については、以前「中国外交部の報道官の「お返ししなければ失礼」発言の出典は『礼記』」という記事に詳しくまとめたので、そちらも参照されたい。 []
  4. 新浪体育.(2018年2月17日).羽生结弦让陈滢金句频出:他容颜如玉 身姿如松. []
  5. 「洛神賦」の中では、神の美しさを示すために「へんたること驚鴻のごとく、ゑんたること游竜のごとし」と言っている。羽生選手は男性であるものの、羽生選手の演技の中に存在する女性的美しさを表現するためにあえてこの言葉を持ち出したのだろう。 []
  6. この問いに対する答えとしては、身を強調することで独立した個々人が連想され、それが中国共産党の支配体制と相性が悪いからだといった答えが考えられるかもしれないを。もちろん、これが絶対的な正答であるわけではないし、そもそも習総書記がそれほど深く考えずに引かなかったという可能性もある(スピーチの文脈を見ると、旧正月の家族の団らんの話をしているので、家が基礎になるというのは自然と言えば自然である)。 []
  7. こうしたスピーチの場合、習総書記自身が古典の言葉を探してくるというよりは、スピーチライターが探してくるはずだ。しかし、誰が言葉を探しているにせよ、古典を用いることが評価されるということは変わらない。もし評価されないのであれば、スピーチライターもわざわざ古典から言葉を探すことはしないだろう。 []
  8. 中国との外交でも中国古典をうまく使おうと思えば使えるところがあるかもしれない。例えば、「日本はいつまで中国に謝罪しなくてはならないのか」と言いたいときに、『春秋左氏伝』の「仁ニ親シミ隣ト善クスルハ、国ノ宝ナリ」という言葉が使えるかもしれない。この言葉は表面的には「隣国同士で仲良くするのはいいことだよね」という意味なのだが、『春秋左氏伝』の中では「相手の国を許すべきでしょう」という文脈で使われ、相手の国を許さない君主をそしる意味をもる。だから、この言葉を使うことで、「いつまでも日本に謝罪を求めるだけで良いんですか?」というのをエレガントに伝えられるかもしれない。 []
  9. いずれも全三巻。 []
  10. 詞や辞賦なども含む。 []