はじめに
日本の多くの大学では、「第二外国語」として、英語以外の外国語の授業が設定されている。大学によって違いが大きいものの、第二外国語として選べる言語は色々なものがある。例えば、東京大学では、2010年度現在で7種類の第二外国語から1つを選択することができる。この7種類の外国語とは、ドイツ語・フランス語・中国語・ロシア語・スペイン語・韓国朝鮮語・イタリア語である。それでは、第二外国語の選択肢が昔から多様であったかというと、そうではない。戦前の旧制高等学校では、ドイツ語とフランス語ぐらいしか選択肢がなかった。それでは、他の外国語はどのようにして、第二外国語の列に加わったのだろうか。
ここでは、特に、東京大学において、ロシア語がどのようにして第二外国語に採用されたのかについて紹介したい。端的にまとめると、ロシア語が第二外国語に採用された理由は、ソ連の科学の進歩に伴い、科学文献を読むために必要だと考えられたからである。科学のためという側面は、他の第二外国語では見られない特殊なものである。東京大学の教養課程で、ロシア語が第二外国語として選べるようになったのは、1962年のことである。実は、戦後の学制改革のときにロシア語を第二外国語に加えようとした動きもあったのだが、かなり遅れて第二外国語となったのだ。
新制東京大学と第二外国語の設定
戦後の学制改革により、大学制度も大きく変わることとなる。東京大学について言えば、1949年5月31日に新制の東京大学が成立する。また、同時に第一高等学校と東京高等学校が東京大学に組み込まれることになる。これは結局どういうことなのかというと、教養課程を担っていた旧制高等学校と、専門課程を担っていた旧制大学が合わさって、新制大学になったということだ。つまり、新制大学は、それまでと違って、教養課程と専門課程が併存することになる。東京大学では、駒場キャンパスに教養学部を設置し、そこで1・2年生向けの教養課程の授業を行うこととなった。
さて、1949年、東京大学に教養学部が設置されたとき、第二外国語として選択できたのは、ドイツ語・フランス語・中国語の3つだけであった。ドイツ語・フランス語は、旧制高等学校の第二外国語を引き継いだものである。そもそも、教養学部の教員は旧制第一高等学校などの教授陣を引き継いでいるわけで、教える側がそう大きく変わったわけではない。中国語がなぜ第二外国語として加わったかは、それ自体興味深いことであるが、ここでは特に触れない。
問題のロシア語はどうだったのだろうか? 第二次世界大戦後、ソ連はアメリカとともに超大国として君臨した。つまり、ロシア語の国であるソ連が、世界にしめる地位は高かったのだ。このことからすると、英語についでロシア語が重視され、第二外国語となってもおかしくないようにみえる。しかし、実際には、東京大学では、ロシア語は第二外国語として選ばれなかったのである。
第二外国語とならなかった理由
ロシア語が第二外国語にならなかった理由としては、教養学部設置当時、文学部にロシア文学を扱う学科がなかったことが挙げられる。文学以外にも言語の使い道はあるはずで、別にロシア文学を扱う学科がなくても、第二外国語として設置しても良いではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、当時は旧制高等学校の伝統を引き継いで、外国語とは「実用」のためでなく、「教養」のために学ぶものだという観念が強かった。「教養」を支える重要な支柱の1つが文学であり、文学研究なしには「教養」としての外国語教育はあり得なかったのである。しかし、後に見るように、自然科学に関する文献を読むという、ロシア語の「実用」的な側面が強まるに連れ、ロシア語を第二外国語としようとする動きも強まってくる。
なお、東京大学文学部にロシア語ロシア文学専修課程(現在のスラブ語スラブ文学研究室)が設置されたのは、1971年のことである(東京大学文学部スラブ語スラブ文学研究室のウェブサイトによる)。なので、第二外国語としてロシア語が選択できるようになった1962年には、まだロシア文学を扱う学科がなかったのである。つまり、1962年において、東京大学は「教養」という側面を(ある程度)無視するという選択を行ったのである。
中国語については、ロシア語と逆の状況が見られる。文学部には戦前から中国文学を扱う学科が存在していた。中国文学科の倉石武四郎教授は積極的に第二外国語と採用するように運動を行い、第二外国語として採用させることに成功している。
第三外国語としてのロシア語
先に述べたように、戦後しばらく、東京大学では、ロシア語は第二外国語として採用されなかった。しかし、必修以外の「第三外国語」としてロシア語の授業が設定されていた。1951年度において、第三外国語としてのロシア語の授業は、毎学期週2時間の授業を受け、これを4学期の間続けるものであった。当時も今と同じく、二期制を取っていたので、4学期の授業とは、1年前期・後期と2年前期・後期の授業ということになる。
この時期、必修である第一外国語の英語、そして第二外国語のドイツ語・フランス語・中国語は、それぞれ毎学期週4時間の授業を4学期の間続けていた。単純に言えば、第三外国語としてのロシア語の授業時間数は、第一外国語・第二外国語の半分ということになる。なお、ロシア語以外の第三外国語としては、1951年には、ドイツ語・フランス語・中国語・ギリシャ語・ラテン語が開講されていた。第二外国語としても開講されているドイツ語・フランス語・中国語が第三外国語にもなっているのは、例えば第二外国語としてドイツ語を選択したが、さらにフランス語を学びたいという場合に、第三外国語として選択できるようにしたためであろう。第三外国語としてのドイツ語・フランス語・中国語は、ロシア語と同じように、毎学期週2時間の授業を4学期続ける。ギリシャ語・ラテン語については、1年後期と2年前期で、各学期週2時間の授業を履修することとなっていた。
1961年にはなんと300人もの1年生が第三外国語のロシア語の授業に訪れたという。
科学文献とロシア語
現代では、科学の論文は普通、英語で書かれる。むしろ、英語以外の言語で書くと、世界の研究者から全然読んでもらえないということになる。しかし、科学に関する文献が、昔から英語一辺倒だったというわけではない。分野によっても異なるところがあるが、20世紀の前半まではドイツ語・フランス語が使われることも多かったのである。
ところで、第二次世界大戦後、論文を英語で書かない科学大国が登場した。それは、ロシア語で論文を書いていたソ連である。もちろん、ソ連の学者も英語で全く書かなかったわけではないが、かなりの部分がロシア語で書かれていたのである。つまり、ソ連の科学を知るためには、ロシア語が分からないと困るという状況になっていたのである。
ソ連は1957年に人類最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功する。このことによって、ソ連の科学が優秀であるということが誰の目から見ても明らかになった。日本でも、ソ連は科学に強いので、科学研究を進めるに当たってはロシア語の知識が必要だという認識が深まっていく。
物理学者・玉木英彦のゼミナール
ロシア語が第二外国語になる前、東京大学の教養課程で、第三外国語のほかにロシア語に触れる授業としては、ロシア語の科学文献を読むというゼミナールもあった。このゼミナールは、1953年度の後期から、物理学の教員である玉木英彦が主催したものである。
玉木英彦は、1909年生まれの物理学者である。朝永振一郎とほぼ同じ世代だ。戦時中は、仁科芳雄のもとで、原爆の研究を行っていたようである。
1957年9月21日付けの『教養学部報』第63号において、「ゼミよもやま話」と題して、玉木は以下のように述べている。
イワネンコとは、原子核が陽子と中性子からできているとするモデルを提唱したドミートリイ・イワネンコのことである。
玉木は、1967年には『科学ロシア語のすすめ』(東京:総合図書)という書籍を出版している。自分はこの本を見たことがないのだが、Amazon.co.jp のこの本のページにある表紙のイメージには、「理科系学生とともに・三十年の体験が生んだ助言と苦言」と書かれている。この本が、東京大学でのゼミナールでの経験を生かしたものであることは想像に難くない。なお玉木は、語学に色々と興味があったようで、漢字圏における物理用語の統一についても発言している。
理工系教員の要望
先ほど紹介した玉木英彦は、1960年10月22日付けの『教養学部報』第90号において、以下のように、理学部・工学部の教員からロシア語を第二外国語にする要望が出ていると述べている。
「駒場」とは、東京大学教養学部の所在するキャンパスのことで、教養課程のことを言っている。また、ロシア語を第二外国語として設置するための委員会には、自然科学の教員が多数参加していたそうなので、ここからも理工系教員の期待が伺える。
ついに第二外国語に
1962年度になって、ついに、ロシア語が東大の教養課程の第二外国語として採用された。このときロシア語を第二外国語として選択できたのが、理科一類・理科二類の学生に限られていた。文系の学生と、医学部医学科に進学する予定の理科三類の学生は選択できなかった。こうなった理由は、前述のように、理学部・工学部の要望があって、第二外国語として採用されたという経緯によるものであろう。
第二外国語として、ロシア語を選択したものは非常に多かった。1962年度には、理科一類では50人強のクラスが3つ、理科二類では70人近いクラスが1つできたというから、あわせて220-230人といったところだろう。
補遺
なお、1960年頃に、ロシア語を学習しようとした学生が増えた理由としては、上で述べたようなソ連の科学へのあこがれ以外にも、ソ連の共産主義に対するあこがれという側面があることは想像に難くない。