はじめに
2016年2月に講談社現代新書で『2020年の大学入試問題』という本が出た。その書誌情報は以下の通りである。
- 石川一郎.(2016). 『2020年の大学入試問題』東京:講談社.
この本はそのタイトルにあるとおり、2020年に向けた日本の大学入試改革の方向性を紹介したものである。しかし、私がこの本を読んだところ、ページをめくるたびに記述がおかしいところがあるというありさまであった。
この本は、誤りがすこぶる多く、今後の大学入試について論じるときの参考になるとは到底言えない。以下、この本にある実際の誤りを指摘しながら、なぜこの本が良くないのかということについて説明していきたい。
著者の無理解を体現した表
『2020年の大学入試問題』では、これからの大学入試で測られる能力を描写するにあたって、「ブルームのタキソノミー」や「CEFR」といった用語が用いられている。この本の著者はこうしたものをしっかりと理解せずに使っている。
この本の著者の無理解を端的に示した表が『2020年の大学入試問題』の38ページに載っている。教育に関して少しものを知っている人ならば、違和感を覚えるところがあるだろう。
高校3年生 | 高校2年生 | |||||
2020年の大学入試問題 | 各大学個別独自入試 | 大学入学希望者学力評価テスト | 高等学校基礎学力テスト | |||
学力の3要素 | 主体性 多様性 協働性 |
思考力 判断力 表現力 |
知識 技能 |
|||
ブルーム型タキソノミー | 創造的思考力 | 批判的思考力 | 論理的思考力 | 応用 | 理解 | 知識 |
HOT (Higher Order Thinking) | LOT (Lower Order Thinking) | |||||
CEFR | C2 | C1 | B2 | B1 | A2 | A1 |
学問レベルの議論・探究ができる | 新聞を活用して市民社会について議論できる | 日常会話レベルがスムーズにできる |
ブルームのタキソノミーに関する誤解
ブルームのタキソノミー (Bloom’s Taxonomy) というのは、教育の目標についての分類法であり、教育学の分野でしばしば用いられている。
上に引用した表では、ブルームのタキソノミー [1] が「知識」・「理解」・「応用」・「論理的思考力」・「批判的思考力」・「創造的思考力」の6つから成り立っているように見える。しかし、これは一般的なブルームのタキソノミーとかなり違ったものである。
1956年に出た最初のブルームのタキソノミーでは、以下の6つの要素が挙げられている (Bloom et al., 1956)。一目見れば分かるように、『2020年の大学入試問題』の半分とは合っているが、残りの半分とは全く合っていない。
- 知識
- 理解
- 応用
- 分析
- 統合
- 評価
ブルームのタキソノミーに対しては、修正もなされており、挙げられている要素がこれと違うバージョンのものもあるにはある (Krathwohl, 2002)。だが、「論理的思考力」・「批判的思考力」・「創造的思考力」を要素として含めているものは聞いたことがない。
もしかしたら、この本の著者は、ブルームのタキソノミーにどんな要素が含まれているか分からないまま、先に挙げた表を作ってしまったのかもしれない。あるいは、著者はブルームのタキソノミーが本来はどのようなものであるかを知っていながら、「論理的思考力」のような、いかにも大事そうな言葉をむりやり入れ込んだのかもしれない。
だが、いずれにせよ、この分野に明るくない人がこの本を読んだとしたら、ブルームのタキソノミーについて誤った知識を得ることになってしまう。その点で、この本の著者は知的に誠実でない。
CEFRに関する誤解
また、先に挙げた表では、ブルームのタキソノミーだけでなく、CEFRについて書かれている。このCEFRに関する記述もおかしい。
CEFRとは、Common European Framework of Reference for Languages(ヨーロッパ言語共通参照枠)の略で、ヨーロッパにおいて第二言語教育ののために設けられた基準である (Council of Europe, 2001)。この基準は、A1, A2, B1, B2, C1, C2の6つのレベルに分かれている。
先の表を見ると、B1やB2が「新聞を活用して市民社会について議論できる」レベルのように見える。しかし、CEFRはそういったレベル設定をしていない。CEFRの定義によれば、B1とB2は一括して「独立したユーザ」(Independent User) とされているだけである (Council of Europe, 2001:24)。市民社会だとか、新聞を活用してという話は出てこない。
CEFRのグローバルスケールを見ると、B2レベルの人間の特徴として、「その専門分野におけるテクニカルな議論を含む、具体的・抽象的なトピックに関する複雑なテキストの主要なアイディアを理解できる」 [2] といったことが一応書かれている。だが、これは『2020年の大学入試問題』の著者が説いている内容とはかみあわない。
この本の著者が言う「新聞を活用して」にいたってはどこから出てきたのか皆目見当がつかない。本来のCEFRでは、B1, B2レベルの人間の特徴を概括するときに「新聞」など使っていないのだ。かろうじて、B1レベルの人間のリーディングの特徴として挙げられている「なじみのあるテーマに関する首尾一貫した新聞記事の重要な点を認識することができる」 [3] ということが関連するかもしれない。だが、これはB1レベルの人の特徴のごく一部を表したものに過ぎないので、これをもってB1, B2レベルの説明とするのは不適当だろう。しかも、「新聞を活用して」という内容とはやはりかみあわない。
いずれにせよ、この本には、CEFRの定義とはおよそかけ離れたことしか書かれていないのだ。
今までは、くだんの表のCEFRのB1, B2レベルの記述がおかしいということだけ見てきた。だが、おかしいところはこれらのレベルだけではない。詳しくは議論しないが、他のレベルの記述も明らかに妥当でない。
いずれにせよ、例の表では、ブルームのタキソノミーだけでなく、CEFRについても誤ったことを書いている。そして、この誤りは、ここの表だけに見られるのではない。本文でも、いろいろとおかしいことをいっている。例えば、CEFRのBレベルが「新聞ベースの読解リテラシー、ディスカッションの能力」(石川,2016:40)だということが書かれている。先に挙げた表だけの誤りではないのだ。
言葉の意味を深く考えない書きぶり
先ほど挙げたブルームのタキソノミーにせよ、CEFRにせよ、この本の著者はその意味をしっかり考えずにいいかげんに使っているところが見られる。
これほどまでに誤りが多ければ、そこから何かを主張することは難しい。「ゴミを入れれば、ゴミが出てくる」(garbage in, garbage out) という有名な言葉にあるように、根拠となるものがだめならば、そこから出てくる主張がよくなるわけがないのだ。
正直なところ、この本は、教育業界でホットになっている用語を散りばめているだけで、意味のある議論ができていない。これは、無意味な科学用語や数式をちりばめた論文がポストモダン系の雑誌に載ったソーカル事件と似たところがある。ソーカル氏は意図的に無意味な科学用語をちりばめてポストモダン思想にたずさわる人々をかついだ。『2020年の大学入試問題』は、意図的ではないだろうが、言葉の意味を深く考えずに教育研究での積み重ねというものを無視して自己流の解釈に走ってしまっている。そして、その結果、無意味な教育用語をちりばめて教育に関心を持つ人々を惑わせている。
ここからは憶測になるのだが、著者は本質的な理解をしないままに、教育業界・大学入試業界でのキーワードを表面的になぞっただけで、それをそのまま書いてしまったのだろう。道聴塗説、すなわち道ばたで聞いた話をしっかりと飲み込んで自分のものにしないまま、そのまま出してしまったというところだろう。
まとめ
『2020年の大学入試問題』には問題が多い。本当にこれからの大学入試について知りたければ、別のものを使うべきである。
現在の大学入試改革のように、新しいものが始まる場合、その道についてよく知っている人がほとんどいないということがある。そういったときには、この本のように質の悪いものであっても、価値を判断できる人が少ないから、世に出てしまいがちである。そういったものに惑わされないようにするのはなかなか難しいものだ。こういった状況を改善できるとしたら、より質の高い情報をしっかりと供給し、悪貨を駆逐していくことだろうか。
個人的には、しっかりと物事を分かっている人が、広く一般に向けて伝えられるものを出すことを期待している。
参考文献
- Bloom, B. S., Engelhart, M. D., Furst, E. J., Hill, W. H. & Krathwohl, D. R. (1956). Taxonomy of educational objectives: The classification of educational goals. Handbook 1 Cognitive domain. New York: David McKay Company.
- Council of Europe. (2001). Common European framework of reference for languages: Learning, teaching, assessment. Cambridge, U.K.: Cambridge University Press.
- Krathwohl, D. R. (2002). A Revision of Bloom’s Taxonomy: An Overview. Theory Into Practice, 41(4), 212-218.
- 石川一郎.(2016). 『2020年の大学入試問題』東京:講談社.
- 表では「ブルーム型タキソノミー」という言葉が用いられているが、『2020年の大学入試問題』の本文では「ブルームのタキソノミー」という言葉が用いられている。おそらくこの本の著者(もしくは編集者)が用語法を統一できていなかっただけだと思われる。なお、一般的には「ブルームのタキソノミー」ということの方が多いと思う。 [↩]
- 引用者訳。英語原文は“Can understand the main ideas of complex text on both concrete and abstract topics, including technical discussions in his/her field of specialisation.” (Council of Europe, 2001:24) [↩]
- 引用者訳。英語原文は“Can recognise significant points in straightforward newspaper articles on familiar subjects.” (Council of Europe, 2001:70) [↩]