研究室の藪の中

概要
ある剽窃さわぎから発覚した捏造。しかし、それをめぐる関係者——特任研究員、ポスドク、助教——の言葉は一致せずに……。

査問委員会に問われたる院生の物語

さようでございます。あの剽窃ひょうせつを見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは先週いつもの通り、図書館に新しく出た論文を読みに参りました。すると論文の実験結果の段に、あの剽窃があったのでございます。あった処でございますか? それはネイチャーやサイエンスのような注目を浴びる有力誌からは、大分隔たって居りましょう。査読をろくにしていないとの評判の、インパクトファクターのさして大きくない学術誌でございます。

読んだ論文に出ていた実験結果はわたしが以前に読んだ別の論文とまったく同じものでございました。何しろ使われている単語が一字一句同じであるばかりか、結果の表に書かれている数字まで同じでございます。いえ、序論や結論はさすがに同じ論文から剽窃しては居りません。もっと別の論文から剽窃されて居ったのかもしれません。

なぜ剽窃に気づいたかでございますか? いえ、特別に剽窃を気にしていたわけではございません。ただ、今わたしはこの分野について研究して居りますので、この辺りの論文が出るたびに一通り読むのでございます。それから、——そうそう、実験結果が書いてある表に妙なところが一つございました。数値の一番上のけたが1である数値がいやに少なかったのでございます。何、それのどこがおかしいのか? いえ、ずらっと並んだ数値のうち、一番上の桁が1であるものが、九に一ほどしかなかったのでございます。数字は1から9まであるから、一番上の桁が1になるのが九に一と云うのは自然ではないか? いえ、あの論文での数値はかなり幅の広いものでして、小さいものと大きいものを比べると桁が5桁は違うのでございます。小さい方が百程度で、大きい方が千万程度の値なのでございます。一般にそのように幅が広いデータの場合、数値の一番上の桁が1となるものが多くなるのでございます。ベンフォードの法則と云うものでございます。対数をとれば分かりましょう。もっとも、その妙なところは剽窃した論文だけでなく、剽窃された論文の方でもそうでございますから。

査問委員会に問われたる准教授の物語

あの論文を書いた助教には、確かに去年遇って居ります。去年の、——さあ、桜の花の散る頃でございましょう。場所はこの研究室でございます。あの助教は実験ノートを持ったポスドクと一しょに、わたしの研究室に見学に参りました。ポスドクとはほとんど言葉を交わして居りませんから、研究内容はわたしにはわかりません。聞いたのはあのポスドクは助教と共同研究を行っていると云うことばかりでございます。——確か新素材を開発するとか申して居りました。特許でございますか? 特許を取ると云う話でございましたか? ——何しろわたしはその辺りの事にうといものでございますから、その辺ははっきり存じません。あの助教は、——いえ、やけに研究内容に対して自信満々でございました。きっと論文に書き上げると云って居りました。ことに有名誌に投稿する予定であると云っていたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。ただ、わたしが思いますに、あの助教とポスドクの研究は、まだ十分なデータが足りなかったようでございます。もう少し、良いデータを積み重ねなければアクセプトされる事はないとわたしは考えて居ります。

さようでございますか? あの助教とポスドクが? あの助教が書いた論文がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に研究者のさがなぞは、業績を挙げるためならば何でもしてしまうに違いございません。わたしも研究者でございますが、研究のプレッシャーに負けて都合の良い結果のみ拾いたくなることはございます。わたしも捏造をしたことがあるか? まさか。心によぎったことがないと云えば嘘になりますが、それでもわたしの研究者としての倫理観がそれを許さないのでございます。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事でございました。

査問委員会に問われたる事務職員の物語

わたしが事情を聞いた論文の著者でございますか? これは確かに当学で特任研究員を勤めているその道では名高い男でございます。もっともわたしが事情を聞きに行ったときには、ネット上での誹謗中傷にさいなまれたのでございましょう、研究室のノートPCの前に、うんうんうなって居りました。時期でございますか? 時期は昨週の木曜日でございます。いつぞやわたしが話を聞きに行った時にも、茶色く薄汚れた白衣を着てうんうん呻って居りました。今から思えば、誰のデータを奪うかを考えていたに違いありません。ただ今も、御存知の通り、あの特任研究員のPCの中に、剽窃元の論文のデータが入って居りました。さようでございますか? あのポスドクが研究していたテーマも、——では捏造を行ったのは、この特任研究員に違いございません。はい。おっしゃる通り、研究ノートも残されて居りません。内規では必ず研究ノートに記録する事となって居りますが、この特任研究員はしばしば記録を忘れたと云っていたそうでございます。

この特任研究員と云うやつは、学界に徘徊する剽窃者の中でも、特に悪質なものかと存じます。昨年の秋、指導していた学生のデータを先輩風をふかせて無理矢理取り上げたと云う訴えが学内のハラスメント対策委員会に出て居ります。この特任研究員の上司である教授がハラスメント対策委員会の委員であったのでございますが、この案件がハラスメント対策委員会で討議されたとは聞いて居りません。結局どこへどうしたか分かりません。差出がましゅうございますが、それも御詮議下さいまし。

査問委員会に問われたる名誉教授の物語

はい、あの研究は手前の指導した学生が、あの助教としていた研究でございます。が、助教は当学出身のものではございません。海外の大学のポスドクを経て助教として着任したのでございます。年は三十六歳でございました。いえ、堅実な研究をする者でございますから、捏造なぞする筈はございません。

手前の指導学生でございますか? 当学で博士号を授与し、ただ今はポスドクとして研究を続けて居ります。これは先の助教と劣らぬぐらい、丁寧な研究をする者でございますが、まだこれと云って有名な雑誌に論文が載ったことはございません。業績は国際学会での発表が数回と、いくつかのさして名の通らない専門誌に何通か論文があるだけでございます。

あの助教は去年手前の学生と一しょに研究を行ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし手前の学生はどうなりましたやら、あの助教の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうか一生のお願いでございますから、たとい草木を分けましても、手前の学生の無実をお示し下さいまし。何に致せ憎いのは、その特任研究員とか何とか申す、剽窃をしたやつでございます。あのポスドクばかりか、手前の学生の将来までも………(跡は泣き入りて言葉なし)

特任研究員の白状

あの助教のデータを盗用したのはわたしです。しかしデータの捏造は致してはおりません。ではだれが捏造を行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくらたずねられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。

わたしは昨年の四月の終わりに、あの二人の研究者に出会いました。その時互いの研究を話した時に、二人の研究成果を見たのです。ちらりと、——概要を理解した瞬間には、論文の草稿をあの助教がカバンの中にしまったので詳しく見られなかったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの研究が何やら高邁な研究成果のように見えたのです。わたしはその咄嗟とっさの間に、あの研究を奪おうと決心しました。

何、論文を剽窃するなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ研究者が大成しようと思うのなら、必ず人の研究成果を奪うのです。ただわたしは奪う時に、コピーアンドペーストをするのですが、あなた方はコピーアンドペーストをしない、ただ権力で成果を奪う、金で成果を奪う、どうかするとおためごかしの言葉だけでも成果を奪うでしょう。研究費を出してやったからと云って何ら知的貢献をしていなくとも論文の筆者に名を連ねたり、学生の研究結果を「私の名前で出した方が採用されやすいから」と言葉巧みに誘ったり、そのようなことをしているのでしょう。なるほど剽窃は起きない、金を出してもらった方も損はしない、——しかしそれでも成果を奪ったのです。罪の深さを考えて見れば、あなたが悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

しかし剽窃をせずとも、研究成果を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心持ちでは、出来るだけ相手が研究成果を発表する前に、自分が抜け駆けで発表しようと決心したのです。

これも造作はありません。わたしはあの二人の研究者のところを訪れると、私があなた方の実験とよく似た視点で実験を行ったところ、とても面白い結果が出た、まだ公にはしていないが、もし興味があるならば、それについて情報を共有したい、——と云う話をしたのです。助教はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、——どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半日もたたない内に、あの二人は論文の草稿と、実験データを私にメールしていたのです。

わたしは二人の論文の草稿に少しばかり手を加えて、審査がすぐ終わると云う評判の学術誌に投稿したのです。あの二人は審査に時間がかかる有名誌に投稿しようとしていましたから、わたしの投稿したものが先に世に出ると云う寸法です。ほかに面倒はありません。ともかく、わたしは思い通り、他人の研究成果を自分の業績にする事は出来たのです。

他人の研究成果を——そうです。わたしはさらに業績が欲しかったのです。あの二人からならばいくらでも成果を奪う事が出来るだろうと考えたのです。そこでわたしはまたあの研究室を訪れたのです。所が例の助教とポスドクが研究室の中でデータを捏造していたのです。十面サイコロを使って数値をでっちあげていたのです。わたしはその時猛然と二人のしている行為に怒気をみなぎらせました。(陰鬱なる興奮)

こんな事を申し上げると、きっとあなた方は盗人猛々しいと考えるでしょう。しかしそれはあなた方が、科学の本質を理解していないからです。正確なデータであれば誰が発表しようとも科学の進歩には貢献します。たとえ剽窃という形で世に出たとしてもです。これに対して、捏造されたデータは世界を正しく認識すると云う科学の営みを殺すようなものです。——どうかこれだけは忘れずに下さい。わたしは今でも科学に貢献したいと思っているのです。(快活なる微笑)

事によるとあのポスドクや助教は、あの研究以外でも捏造をしていたのかも知れない。あの罪悪感のなさからすると、きっと常習犯だったのでしょう。——わたしの白状はこれだけです。どうせ研究者として大成は出来ないと何度も考えた身ですから、どうか免職にして下さい。(昂然たる態度)

占いの館に来れるポスドクの懺悔

——その茶色く薄汚れた白衣を着た特任研究員は、わたしたちのデータを奪うと、わたしを眺めながら、嘲るように笑いました。わたしがどんなに無念だったことか。が、いくら身悶えしても、あの特任研究員が先に論文を発表してしまったと云うことは変わりません。このままでは私たちが有名誌に投稿しようとしていた論文の方が「盗用」と云うことにされかねませんでした。

どうすべきかと云うことについて助教さんに相談しました。いえ、相談しようとしたのです。しかし研究室に行ったところ、助教さんはあの特任研究員と話していました。わたしは助教さんの眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのをさとりました。何とも云いようのない、——わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。助教さんはあの特任研究員にこう話していたのです。——「あんなポスドクの一人や二人をだますのは簡単だ。おれが自分で実験をしなくてもあのポスドクをだましてデータを集めさせれば良いのさ。こっちは椅子に座っているだけで論文が作れると云う訳だ。まあ都合の良い数値はなかなか出ないから、そこら辺はうまく編集する必要があるが。」そう云う助教さんに対してあの特任研究員が蔑んだ視線で云いました。「つまりは捏造をしたと云うわけだろう。まあ、あんたからは分け前の論文をもらったから、文句はないが。」——「あくまでも編集だ。捏造ではない。査読者が見て分かりやすくする必要があるからな。」あの何とも云いようのない輝きが助教さんの眼の中にまだ残っていました。——その時のわたしの心のうちは、何と云えばいかわかりません。わたしは特任研究員が帰った後、助教さんの側へ近寄りました。

「助教さん。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは研究室から去る覚悟です。しかし、——しかしあなたも研究室から去って下さい。あなたは研究者としては犯してはならぬ罪を犯されました。わたしはこのままあなた一人、のうのうと研究者を続けさせる訳には参りません。」

わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも助教さんは忌わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂けそうな胸を抑えながら、助教さんのデータ改竄の跡を探しました。が、そうすぐに見つかる訳がありません。しかし幸い、わたしの手元に自分がとった実験データはあるのです。わたしはそれ頼りにして、もう一度助教さんにこう云いました。

「ではこの捏造の件を公にさせて下さい。」

助教さんはこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。助教さんは、ゆっくりとそして普段なら使わないような低い声で、わたしを蔑んだまま、「公になったところで困るのはおまえの方だぞ。」と一言云ったのです。

その言葉を聞いて、私の頭の中は真っ白になってしまいました。気づいたころには研究室を出て自宅に戻っていたところでした。数日してやっと気分が落ち着いた時には、わたしが捏造に関与したと云ううわさが広まっていたのです。そうして、——そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、悪質なうわさに対処すべきすべがなかったのです。知り合いの先生に連絡したり、ネット上の匿名掲示板に自己弁護の言葉を書き込んだり、いろいろな事もして見ましたが、悪いうわさを消し切れずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ないものは、学界に残ることが出来ないのかも知れません。しかし云われなき嫌疑をかけられたわたしは、一体どうすれば好いのでしょう? 一体わたしは、——わたしは、——(突然烈しき歔欷すすりなき

ネットワーク上の匿名の音声ファイルに録されたる元助教の物語

——あの特任研究員はおれたちのデータを奪ったことをポスドクに告げると、そこへ腰を下したまま、いろいろポスドクを慰め出した。剽窃をする連中の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、——おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかしポスドクは悄然と研究室の椅子に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも剽窃者の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬しさに身悶えをした。が、特任研究員はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。たとえ真面目に実験したとしても、きれいな結果はなかなか出まい。堅実な研究しかしない助教と一しょにつまらない研究をするより、自分の一しょに大胆な成果を発表する気はないか? 自分は科学の進歩に資すると思えばこそ、人のデータを組み入れたり、数値をきれいなものにそろえたりしたのだ、——剽窃者はとうとう大胆にも、数値の改竄をすると云う話さえ持ち出した。

剽窃者にこう云われると、ポスドクはうっとりと顔をもたげた。おれはまだあの時ほど、真剣な目をしたポスドクを見た事がない。しかしそのポスドクは、何と返事をしたか? おれは学界にいられなくなっても、ポスドクの返事を思い出すごとに、嗔恚しんいに燃えなかったためしはない。ポスドクは確かにこう云った、——「ではお気の召すままにデータを変えて下さい。」(長き沈黙)

ポスドクの罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかしポスドクはこうも云った。「あのデータはいずれにせよ、わたしが実験もせずに出したものですから。」——ポスドクは更に言葉を続けた。「つまり実験で得られたデータでなく、捏造したものなのです。」——捏造、この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様さかさまにおれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、——(突然ほとばしるごとき嘲笑)その言葉を聞いた時は、あの剽窃者さえ色を失ってしまった。「捏造したデータですから、数値を変えても大したことはありません。」——ポスドクは平然とそう云いながら、剽窃者を見つめている。剽窃者はじっとポスドクを見たまま、返事をしない。——と思うか思わない内に、ポスドクは研究室の床の上へ、ただ一蹴りに蹴倒された、(再び迸るごとき嘲笑)特任研究員は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あのポスドクはどうするつもりだ? 罰するか、それとも助けてやるか? 返事はただうなずけばい。罰するか?」——おれはこの言葉だけでも、特任研究員の罪は赦してやりたい。(再び、長き沈黙)

ポスドクはおれがためらう内に、たちまち研究室の外へ駆け出した。特任研究員も咄嗟に飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。

特任研究員はポスドクが逃げ去った後、ポスドクが使っていたPCや実験ノートを取り上げた。「今度はおれの身の上だ。」——おれは特任研究員が研究室の外へ、姿を隠してしまう時に、こうつぶやいたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれはじっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度みたび、長き沈黙)

おれはやっと研究室の椅子から、疲れ果てた体を起した。おれの前にはポスドクが残した、捏造された数値が書かれた紙がある。おれはそれを手にとると、何度も何度もボールペンで取り消し線を引いた。おれの胃の中で何かなまぐさい塊が回転しているのを感じた。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この研究室の中には、ピペットをいじる雑用一人すら来ない。——もう実験器具も見えない。おれはそこに座り込んだまま、深い静かさに包まれている。

その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇が立ちこめている。誰か、——その誰かは見えない手が、そっとおれの机の上に懲戒免職の通知を置いた。同時におれの口の中には、腥い塊が溢れて来る。おれはそれぎり永久に、学術界から沈んでしまった。………

注意書き

この物語はフィクションです。