蜘蛛の糸―無職博士編

概要
高学歴ワーキングプア地獄で苦しむ無職の博士に対して御釈迦様がさしのべた助けとは? そして、博士はその助けで学術界の底辺から抜け出せるのか?

本文

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の象牙の塔を、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。象牙の塔の頂上に収められている学術の成果は、みんな玉のように輝き、そのまん中にある金文字表紙の博士論文からは、上質紙の何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

やがて御釈迦様はその象牙の塔に御佇みになって、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の象牙の塔の下は、丁度学術界の底辺に当って居りますから、淀んだ空気を透き徹して、高学歴ワーキングプア生活やブラック研究室の景色が、丁度擦硝子を通したように、ぼんやりとのみ見えるのでございます。

するとその学術界の底辺に、無職の博士と云う男が一人、ほかのポスドクや院生と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。この無職の博士と云う男は、致死量の二十倍の薬品を投与して実験用のマウスを殺したり、他人が作ったデータを自分のものだと詐ったり、おまけに科研費で自分のゲーム用のiPadを買ったりするなど、国民が納めた血税を盗んだ大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が研究室に行きますと、学部生が一人、期日ぎりぎりまで卒論に取り組んでいるのが見えました。これに博士は「己より若いのに大企業に就職も決まって彼女もいるなどあってはならぬことだ」とやっかみを抱きまして、早速学部生の実験データを消して、留年させて人生を終わらせようと致しましたが、「いや、いや、これも学部生ながら、真面目に研究をしているに違いない。その研究を無暗に邪魔すると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその学部生を邪魔せずに助けてやったからでございます。

御釈迦様は学術界の底辺の容子を御覧になりながら、この博士には学部生を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を学術界の底辺から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、ある大学の准教授の職が一つ空いて居ります。御釈迦様はその職をそっと御手に御取りになって、極楽の象牙の塔から、遥か下にある学術界の底辺へ、まっすぐにアカデミックポストの公募を御下しなさいました。

こちらは学術界の底辺の高学歴ワーキングプア地獄で、ほかのポスドクや院生と一しょに、浮いたり沈んだりしていた無職の博士でございます。何しろどちらを見ても、お先はまっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しいブラック研究室の灯が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。

ところがある時の事でございます。何気なく博士が頭を挙げて、高学歴ワーキングプア地獄の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、アカデミックポストの公募が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。博士はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。このポストに縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと無職からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、身分が安定した常勤の職を手に入れる事さえも出来ましょう。そうすれば、もうポスドクの任期切れにおびえる事もなくなれば、無職で生活に困窮する事もある筈はございません。

こう思いましたから無職の博士は、早速そのポストの公募を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より業績をでっちあげるのは得意な博士の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた高学歴ワーキングプア地獄は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。この分でのぼって行けば、ワーキングプアからぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。ところがふと気がつきますと、大学院の下の方には、数限もない院生たちが、博士ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。博士はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断れそうな、この細いアカデミックポストの公募が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元のワーキングプア地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、院生たちは何百となく何千となく、まっ暗な学術界の底辺から、うようよと這い上って、細く光っているアカデミックポストへの公募を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、公募ポストは他の優秀な人間にとられて、自分は落ちてしまうのに違いありません。

そこで無職の博士は大きな声を出して、「こら、院生ども。このアカデミックポストの公募は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。

その途端でございます。今までかろうじて存在したアカデミックポストの公募が急にぷつりとなくなってしまいました。ですから博士もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に高学歴ワーキングプア地獄へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

御釈迦様は極楽の象牙の塔の頂上に立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて博士が学術界の底辺へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかりワーキングプア地獄からぬけ出そうとする、博士の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元のワーキングプア地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

しかし象牙の塔の頂上にある学術の成果は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のように輝いた成果は、御釈迦様の御手元に収められて、そのまん中にある金文字表紙の博士論文からは、上質紙の何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

注意書き

この物語はフィクションです。