杜子春―ポスドク編

概要
無職の博士の前に現れた白衣を着た老人。老人は仙人ならぬ専任のようで、博士を助けるために手をさしのべる。その結末やいかに?

本文

或春の日暮です。

とある大学の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

若者は無職の博士といって、元はしっかりとした大学院で学位をとったものでしたが、学位取得後も職はなく、奨学金という名の借金ものしかかり、今はその日の暮しにも困る位、あわれな身分になっているのです。

「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、雇ってくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、いっそ走ってくる電車へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」

博士はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。

するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、白衣を着た老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと博士の顔を見ながら、

「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。

「私ですか。私は今食べていくための職もないので、どうしたものかと考えているのです」

老人の尋ね方が急でしたから、博士はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。

「そうか。それは可哀そうだな」

老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、

「ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと職への手掛かりが埋まっている筈だから」

「ほんとうですか」

博士は驚いて、伏せていた眼を挙げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。

博士は一日の内に、職を持つようになりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、電話番号が書かれたメモが出て来たのです。その電話番号にかけると、科研費で一山当てて、その研究プロジェクトに人がいるから、すぐにポスドク研究員として来てくれとの話があったのです。

ポスドク研究員になった博士は、すぐに立派なアパートを借りて、普通の就職をした高校の同級生にも負けない位、人間らしい暮しをし始めました。発泡酒でなくビールを飲むやら、背もたれだけでなく肘掛けも付いた椅子を買わせるやら、国際学会に出席すると称して海外旅行に行くやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

しかしいくらポスドクでも、その職には任期がありますから、さすがに博士も、一年二年と経つ内には、だんだん不安になり出しました。そうすると研究はなかなか進まないもので、昨日まではすらすら書けた論文も、今日はどんなに知恵をこらしても、一段落ですら書けません。ましてとうとう三年目の春、ポスドクの任期が切れ、又博士が以前の通り、無職になって見ると、広い学術界の中にも、彼に職を融通しようという所は、全くなくなってしまいました。いや、職を融通するどころか、今では無給の研究員の肩書きも、恵んでくれるものはないのです。

そこで彼は或日の夕方、もう一度あの大学の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、白衣を着た老人が、どこからか姿を現して、

「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。

博士は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、

「私は今食べていくための職もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと職への手掛かりが埋まっている筈だから」

老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。

博士はその翌日から、忽ちポスドク研究員に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。発泡酒でないビール、肘掛けの付いた椅子、それから学会出席と称した海外旅行――すべてが昔の通りなのです。

ですからあれだけ長く見えたポスドクの任期も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。

「お前は何を考えているのだ」

白衣を着た老人は、三度博士の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論彼はその時も、大学の西の門の下に、ぼんやり佇んでいたのです。

「私は今食べていくための職もないので、どうしたものかと考えているのです」

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと職への――」

老人がここまで言いかけると、博士は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。

「いや、ポスドクはもういらないのです」

「ポスドクはもういらない? ははあ、では人並みの生活をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」

老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと博士の顔を見つめました。

「何、人並みの生活に飽きたのじゃありません。任期付きというものに愛想がつきたのです」

博士は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。

「それは面白いな。どうして又任期付きに愛想が尽きたのだ?」

「任期付きの職は皆残酷です。私が職に就いた時には、身分も給料も保証しますけれど、一旦任期が切れて御覧なさい。任期の延長さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度任期付きのポスドクになったところが、何にもならないような気がするのです」

老人は博士の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」

博士はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、専任になる修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは業績の多い専任でしょう。専任でなければ、一夜の内に私をポスドクにすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、専任になる術策を教えて下さい」

老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、

「いかにもおれはある有名大学に棲んでいる、教授という専任だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度までポスドクにしてやったのだが、それ程専任になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く願を容れてくれました。

博士は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も教授に御時宜をしました。

「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な専任になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、大学の奥へ来て見るが好い。」

二人が大学の奥の実験室に来ると、専任は博士に向かって、

「おれはこれから学会へ行って、講演をして来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るまで、ここで自分のしたい研究をしているが好い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して研究を止めるのではないぞ。もし一瞬でも研究を止めたら、お前は到底専任にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、研究を続けるのだぞ」と言いました。

「大丈夫です。決して研究を止めません。命がなくなっても、研究を続けます」

「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」

博士はたった一人、研究室のPCの前に坐ったまま、静に先行研究の論文をインターネットで検索していました。すると、突然PCの画面に広告に表示があって、

「あの伝説のオンラインゲームが今よみがえる」と、博士を巧みに誘うではありませんか。実は博士はかつてゲームの世界と現実が逆転するほどのネットゲームマニアだったのです。

しかし博士は専任の教え通り、誘惑に負けず研究を続けていました。

ところが又暫くすると、やはり同じような広告が表れて、

「今なら通常では手に入らないゲーム内の限定レアアイテムをプレゼント。今すぐ登録してゲームの世界に」と、博士を誘い込むのです。

博士は勿論広告を無視しました。

と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた事業仕分け人が一人、忽然と研究室の中に出現して、博士の姿を睨みながら、「本当にその研究費は必要なのか、その研究は社会の役に立っているのか」と一声高くほえました。のみならずそれと同時に、大学の本部から人が来たと思うと、「ここの研究室で獲得した外部資金は大学全体のためにも使うべきだ」と言って、研究費の上前をはねに来るのです。

博士はしかし平然と、眉毛も動かさずに研究を続けていました。

事業仕分け人と大学本部の人員とは、一つ資金を狙って、互に隙でも窺うのか、暫くは睨合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に博士に飛びかかりました。が事業が仕分けされるか、大学本部に上前をはねられるか、研究の資金は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、事業仕分け人と大学本部の人員とは霧の如く消え失せて、後にはまた静かな研究室が戻ってきたのです。が、博士はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。

博士の体は研究室の机の上へ、仰向けに倒れていましたが、博士の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

魂のみになっても研究を続けなくてはと考えていた博士ですが、地獄の鬼は、博士の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違いありません。博士はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪いていました。

「こら、その方はなぜ、地獄に来てまで研究を続けているのだ? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」と、威丈高に罵りました。

博士は閻魔大王の雷のような声におののきましたが、ふと又思い出したのは、「決して研究を止めるな」という専任の戒めの言葉です。そこで森羅殿の床に数式のようなものを指で書きながら、研究を少しでも進めようとしてました。

閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、

「この男の父母は、ひどく惨めな生活をしている筈だから、この男にそのさまを見せつけてやれ」と、一匹の鬼に言いつけました。

鬼が何やら不思議な力を使うと、忽ち二人の老夫婦が森羅殿に現れました。その二人を見た博士は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二人とも、苦労で痩せ衰えた姿でしたが、顔は夢にも忘れない、父母の通りでしたから。

「こら、その方は何のために、研究を続けていたか、さっさと止めなければ、今度はその方の父母が痛い思いをするぞ」

博士はこう嚇されても、やはり研究を続けていました。

「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」

閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。

「見よ。この不孝者め。その二人がいかにその方のことで苦労してきたかを」

すると定年をとうに過ぎた老父母が息子の生活を援助するためにと非正規雇用の下で過酷な労働をしている姿が森羅殿に現れました。父母は年をとって仕事がなかなか覚えられず、若い正社員に何度も叱責されていました。そのしわくちゃになった手のひらはあかぎれだらけでした。父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程辛い労働をしていました。

「どうだ。まだその方は研究を止めないか」

閻魔大王はもう一度博士の答を促しました。もうその時には二人ともも、体がぼろぼろになって、息も絶え絶え倒れ伏していたのです。

博士は必死になって、専任の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。

「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。周りがどう言っても、好きな研究を続けておくれ」

それはたしかに懐しい、母親の声に違いありません。博士は思わず、目を見張りました。そうして老母が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、きつい仕事を続けたことを、怨む気色さえも見せないのです。良い研究職がないとこぼす学術界の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。博士は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の母を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん、」と一声を叫びました。…………

その声に気がついて見ると、博士はやはり夕日を浴びて、大学の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。すべてがまだ前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になったところが、とても専任にはなれはすまい」

白衣を着たの老人は微笑を含みながら言いました。

「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」

博士はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。

「いくら専任になれたところが、私はあの過酷な労働をしている父母を見ては、それを放っておく訳には行きません」

「もしお前が研究を止めないでいたら――」と専任は急に厳な顔になって、じっと博士を見つめました。

「もしお前が研究を止めないでいたら、おれは即座にお前の研究者生命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう専任になりたいというのぞみも持っていまい。任期付き研究者になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」

博士の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」

専任はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、博士の方を振り返ると、

「おお、さいわい、今思い出したが、おれはお前の実家の近くの小さな民間企業にコネを持っている。その企業での正社員の仕事をお前に紹介してやるから、早速実家に戻って働くが好い。今頃は丁度お前の実家で、お前の母親が息子のために夕飯を作って待っているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

注意書き

この物語はフィクションです。(2013年1月30日:誤字修正)