大学院をやめました

概要
私が大学院をなぜやめたのかについて、そして大学院で得たことについて。

はじめに

3月末をもって大学院の博士後期課程を退学することとなった。博論は結局未提出。これで俗にいう「博士課程単位取得満期退学」 [1] になる。

大学院はなかなか楽しかった。周りの人も良い人が多かったし、学術面以外にも色々と勉強になった。結構居心地の良い場所だった。そして、色んな人にお世話になった。この場所でもお礼申し上げたい。

学部4年、修士課程2年、博士後期課程4年 [2] と大学には10年も居続けた。理系 [3] の人は「博士後期課程に3年間ちゃんと在学して研究すれば、博士号なんて簡単に取れるでしょ」と思うかもしれない。私も実際にそのようなことを複数の人から言われた。だが、かなしいかな、日本の人文系の大学院はそういう場所ではない。実際、大学院に10年居続けてようやく博士号をとるという例も少なくない。私のいた専攻もそんなかんじで、標準年限内に博士号をとる人の方がむしろ珍しいという状況だった。

なぜやめたのか

なぜ大学院をやめたのか。

やめると決断したに至った理由は1つだけではない。複数の要因が重なり合って、大学院をやめようと決断したというのが正直なところだ。というわけで、その辺のところを書いてみようと思う。書いても自分にとっては何もならないような気がするが、大学院で同じように悩んでいる人が考える際のヒントになれば良いと思う。

成果が出せない

大学院、特に博士後期課程は研究をする場である。そして、研究をするからには成果を出さなくてはならない。この世界には「参加賞」とか「努力賞」とかいったものはない。いくら真面目に研究をしているつもりでも、見て分かる成果を挙げなくては相手にされないのだ。

そして、私は時間内に成果を挙げることができなかった。成果を挙げなければ博士論文もできない。成果が足りなければ、博士論文が書けたとしても、アカデミックポストに就くことはできない。今はアカデミックポストの求人が1人分あると、それに3桁にのぼる人が応募してくるのもざらである。そのような過酷なアカデミックポストの争奪戦を生き抜くためには、並の成果を挙げるだけではだめで、上々の成果を挙げなくてはならない。そこまで戦い抜くと言い切れる自信は私にはなかった。

こんなこともあって、私は大学院をやめようと思った。思うように成果の挙げられない自分に嫌気がさして。

優秀な人からやめていく

周りの院生がやめていったことも、私の決断に影響した。取るに足らない人物がやめていったのなら、私もやめようとは思わなかっただろう。しかし、優秀な人からやめていった。それが自分にはかなりこたえた。

熱心に研究を行っていた人たちが、大学院をやめていった。彼らは、研究の道からはなれ、専門とは関係ない仕事をはじめていった。彼らは、私なんかよりも、ずっと研究者にふさわしい成果を挙げていた。彼らは、ポスト争奪戦が過酷であろうとも、それを勝ち抜いてアカデミックポストに就けるように見えた。それなのに、そういう人から先にやめていった。彼らは研究が嫌いだったわけではない。むしろ、平均的な院生よりずっと研究熱心だった。自主的にセミナーを開いたり、後輩などを熱心に指導したりしていた。尊敬に値する人たちだった。

言うなれば、優秀な船員がどんどん降りていく船のように感じられた。もしかして操船する者がいなくなって沈没するのではないかとも思った。「残った船員だけでも船は問題なく動くさ」と言う人もいる。実際、船はそう簡単に沈没するものではない。だが、一度抱いた不安はなかなかぬぐえなかった。

2013年3月30日追記:このことは学術界に残った人が優秀でないということを意味するわけではない。優秀な人で出る人もいるし、出ない人もいる。

大学院内の反知性主義

私のいた専攻で、反知性主義 (anti-intellectualism) が目立つようになってきた。大学院という知性の場で、反知性主義の棍棒を振り回す人が出てきたである。そのことも、大学院をやめるという決断に影響した。もちろん、みながみな反知性主義の持ち主であったというわけではない。むしろ、専攻のほとんどのメンバーは、知性を信頼し、単純な反知性主義にはくみしていなかった。反知性主義者は少数しか存在していなかった。ただ、わずかしかいなくとも、その存在は私に嫌気をもよおさせるのに充分だった。

もちろん、多くの研究者はまともである。反知性主義にふけるのはごく少数だ。そうであると信じたい。

だいぶひどい言い方だが、知性のシナゴーグに反知性主義のナチの親衛隊員が1人踏み込んできたようなものだ。

私のいた専攻には修士課程1年生向けに必修授業がある。必修授業なので、好むと好まざるとに関わらず受講する必要がある。だから、どうしても授業内容に興味を持てないことも出てきてしまう。興味を持てないのは仕方がない。だが、興味が持てないために、「この分野は無意味だ」とか「こんなのをやっても意味がない」と反知性主義的な言動を発する院生がいたのには驚いた。もちろん学術的な議論を踏まえた上で、論理的に批判することは問題がないし、むしろ建設的な態度と言える。だが、彼らは感情的に学問を否定してみせるのである。

つまり、「分からないから要らない」という態度を取っているのだ。数学が不得手な中学生が「数学を勉強してもよく分かんないから、数学なんかいらない」と言うのと同レベルである。いや、それ以下かもしれない。中学生は別に学術研究をしに学校に来ているわけではない。だが、彼らは院生なのだ。学術研究の世界の住人なのだ。それがそういう態度をしているのだ。

また、学問における内輪の「秘儀」を振りかざす人が多いのも気になって仕方がなかった。「うちの分野ではこうするのが普通なのだ」とか「昔からそうしてきたから」と言って、方法論に全然疑問を持たない例が少なくなかったのだ [4]

そんなことがあったのも、やめるという決断をした理由の1つだ。

働き方

大学院在学中、色々な大学の先生を見てきて、大学教員のような働き方は自分に合わないような気がした。大学教員は、大学という組織の一員ではあるのだけれども、個人商店的なところがあって、その辺が自分の性格には合わない気がした。これは自分の性格の問題なので、他の人にはあまり当てはまらないだろうが。

就職と年齢

このタイミングで大学院をやめる理由として、自分の年齢がある。あと数年すると、自分は30歳を超える。現在の日本社会では、20代に比べて、30を超えてからの就職は難しい。だから、大学院をやめるタイミングを後回しにすると、取り返しのつかない状況に陥る可能性があった。年齢という「タイムリミット」を迎える前に片を付けなくてはならなかった。

大学院の中は居心地が良かった。だが、それは冬にぬるま湯の風呂につかっているようなものであった。風呂の中にいる分には温かいのだが、湯はいずれ冷えてしまう。冷える前に風呂から出なくてはならなかった。

「苦しい生活をしてでも研究をやりとげるのだ」と考えている人を否定するつもりはない。ただ、私はそこまで苦しい生活をしたくなかった。

大学院で得たもの

暗い話ばかりしてしまったので、少しは明るい話を書いておこうと思う。

大学院に行ったことは、決して無駄ではないと自分では思っている。あるいは自己の選択を正当化するために、そう信じたいだけなのかもしれないが。

とは言え、大学院では色々と学ぶことができた。まず、批判的考察がしっかりできるようになった。人の話を鵜呑みにせず、しっかりと確かめられるようになった。本当なら、その辺のところは、高校や大学の学部のころにしっかり身につけるべきだったのだろう。だが、自分は大学院に入ってようやくその辺のことができるようになった。大学院に行かなかったら、例えば東日本大震災の後のデマなどに騙されていたかもしれない。

他にも数値の扱い方にはだいぶ詳しくなったし、細かな文辞が及ぼす効果をしっかりと把握できるようになった。言語力も結構上がったと思う。また、色んな人に出会えたのも大きな収穫である。

もっとも、大学院に行かずに、普通に就職した場合でも同じようなことを身につけられたかもしれない。人生にセーブ機能があれば、セーブ地点からやり直して検証できるのだが、実際はそうはいかない。だから、本当に大学院で得たものなのかは分からない。

これからについて

4月からは某所で働き始める予定。今まで研究してきたことと多少は関わりのある分野の仕事。これからもよろしくお願いします。

(2013年3月31日追記:就職活動について文系博士課程後期課程院生の就活という文章を書いたので、もしよろしければ参考にしていただきたい。)

脚注
  1. 「博士課程単位取得満期退学」というのは、博士課程修了に必要な単位をそろえたうえで、標準年限を満たしたものの、博士論文を提出せずに退学することを指す。これは公式の称号というわけではなく、単なる俗称である。 []
  2. 博士後期課程の標準年限は本来ならば3年である。私は3年在籍した後、1年休学して今に至っているので、あわせて4年いたということになる。 []
  3. 文系・理系と単純に分けるのは好きではないのだが、分けた方が表現しやすいのでこのように表現した。 []
  4. これは新しい手法が常に優れていると主張するものではない。昔からの手法であるか新しい手法であるかにこだわらず、是々非々の態度で手法を選択すべきだ。 []