旭天鵬と白鵬とモンゴル文字の間

概要
モンゴル出身で1974年生まれの旭天鵬関がモンゴル文字を読めなかったことは、モンゴルにおけるモンゴル文字教育の歴史を反映している。

はじめに

モンゴル出身大相撲力士の先駆けである旭天鵬関が2015年7月の名古屋場所をもって引退した。旭天鵬関は1974年にモンゴルに生まれ、1992年に日本の大相撲で初土俵を踏み、以来23年にわたって活躍した [1]

その旭天鵬関に以下のようなエピソードがある。「チンギスハーン」と書かれたモンゴル文字を旭天鵬関を読むことができず、同じモンゴル出身の白鵬関は読むことができたというものだ。

昨秋、逸ノ城の家族の取材でモンゴルに出張した同僚の波戸健一記者が、土産にポロシャツを買ってきてくれた。左胸に、モンゴル文字が書かれている。夏場所3日目、初めてこのポロシャツを着て取材した。

横綱土俵入りを終えた直後の東支度部屋に入ると、入り口近くの上がり座敷に陣取る旭天鵬が「お、モンゴルのじゃん」と笑みを浮かべた。胸のモンゴル文字を見せると、「でも俺、読めないからさ」。

冗談だと思い、「太田さん(旭天鵬の本名)、モンゴル語は得意でしょ」と冗談を言うと、「俺、この文字をほとんど勉強しなかったんだよ」。そして、綱をほどいたばかりの白鵬に声をかけ「これ、何て読むの?」。

白鵬がポロシャツの文字を指でなぞり、「チンギス・ハーンですね」。すると旭天鵬は、「ということらしいよ」。

旧ソ連の影響下で社会主義時代のモンゴルでは、ソ連と同じキリル文字しか習わず、モンゴル文字はほとんど習っていなかったという。旭天鵬は「わかんないよ。太田さん、日本人だからさ」。

抜井規泰(2015年5月13日).「旭天鵬、支度部屋の素顔 白鵬に『これ、何て読むの?』」『朝日新聞デジタル』 http://www.asahi.com/articles/ASH5D6F6FH5DUTQP02W.html

なぜモンゴルに生まれ育った旭天鵬関はモンゴル文字が読めなかったのだろうか。逆に、なぜ白鵬関はモンゴル文字が読めたのだろうか。そのカギは、2人の受けた教育の違いにある。

モンゴル語を表記する文字の変遷

チンギス・ハーンの肖像(左上)と、そのモンゴル文字表記(右)およびキリル文字表記(下)
チンギス・ハーンの肖像(左上)と、そのモンゴル文字表記(右)およびキリル文字表記(下)

「モンゴル文字」という名前がついている文字があるぐらいだから、現在のモンゴル語を表記するのにはモンゴル文字が用いられていると考える人がいるかもしれない。だが、現在、モンゴル国内でのモンゴル語 [2] の表記に用いられているのは主にキリル文字である。ロシア語で使われているあのキリル文字だ。

伝統的に、モンゴル語を表記するにはモンゴル文字が使われてきた。しかし、1941年に、モンゴル国内では、モンゴル文字の使用が放棄され、代わりにキリル文字でモンゴル語を表記することになった

表記に使用する文字が変わった理由は、ソ連の影響である。1941年当時、モンゴルはソ連の強い影響を受けていた。ソ連もモンゴルも社会主義国であり、ソ連はモンゴルの民族主義を抑圧していた。このことを受け、モンゴル文字の代わりに、ソ連の主要な言語であるロシア語で用いられているキリル文字を使わせたのである。

1990年頃、ソ連の弱体化にともない、各地で一党独裁の社会主義体制が崩壊していくことになる。モンゴルもその例外ではなかった。モンゴルではモンゴル人民革命党による一党独裁体制が続いていたが、1990年2月にモンゴル民主党が設立、7月には複数政党による自由選挙が実施され、一党独裁の社会主義体制は崩壊した。

社会主義体制の崩壊により、モンゴルという国家のよりどころが社会主義から、モンゴル民族主義に変わった。これによって、モンゴル民族の過去の栄光に対する再評価が進み、モンゴル文字も再び取り上げられることになる。

そして、モンゴル語の表記に通常用いる文字はキリル文字がそのまま残ったものの、1990年代以降、学校教育でモンゴル文字が再び教えられるようになった。つまり、この時期より前に学校教育を受けた人はモンゴル文字を知らず、この時期より後に学校教育を受けた人はモンゴル文字を知っているということになる。

ここで、旭天鵬関と白鵬関の生年を確認してみよう。1974年生まれの旭天鵬関は、モンゴル文字の教育が始まったころには、すでに日本で力士をしていた。これに対して、白鵬関は、1985年生まれであり、おそらくモンゴル文字教育を受けた最初の世代の1人である。

この世代の違いにより、旭天鵬関はモンゴル文字が読めず、白鵬関はモンゴル文字が読めたのである。

まとめ

今までの内容をまとめてみよう。

脚注
  1. 日本相撲協会 (n.d.). 「力士プロフィール – 旭天鵬勝」『日本相撲協会公式サイト』http://www.sumo.or.jp/sumo_data/rikishi/profile?id=65 による。 []
  2. モンゴル国外、特に中華人民共和国領内のモンゴル語使用者は、モンゴル文字を使ってモンゴル語を表記している。 []