専門的な文章を読むには訓練が必要という当たり前だがあまり知られていないこと

概要
専門家はお互いにとって理解しやすくするために、専門用語を使って文章を書く。こうした専門的な文章を理解するにはしっかりとした訓練が必要である。

はじめに

西日本新聞のウェブサイトに掲載されたコラムに次のような文章があった。

ネット上に公開された大学などの論文にある「解釈的文脈」「モダリティ辞」「ディアスポラ」「語用論」って何? 高度な論文でなければ注目されず、不勉強と冷笑されもするだろうが、難解な言葉で自己陶酔する世界観が学術界に広がっていないだろうか。

本来、研究は人、社会に役立つべきものと思うが、ネット上の論文には個人的な知的遊戯に浸っている物が少なからず散見される。

田端良成 (2014年3月23日)「STAP細胞をめぐる一連の大騒動」『西日本新聞』 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/desk/article/77391

この指摘は妥当なものでない。研究者は自己陶酔するために難しい専門用語を使うのではない。むしろ、他の研究者にとって分かりやすくするために専門用語を使っているのだ。学術論文は、限られた専門家集団に向けて書かれる文章である。このため、一般人にとっては分かりにくかったとしても、他の研究者にとって分かりやすければそれで良いのだ [1] 。専門家集団に向けて書かれる文章を理解するには、その専門家集団で共有される知識を身につけていなくてはならない。こうした共通知識なしでは、理解できないのだ。このコラムを書いた記者が学術論文を理解できなかったとしたら、まさに記者自身の不勉強がその原因であるというべきだろう。

先に挙げたコラムについての批判はだいたいこんなところで終わるのだが、専門的な文章を読むことや専門用語を使うことについてもう少し掘り下げて考えてみたい。

なお、以下では学術での専門用語を中心にすえて議論を進めるが、学術以外でも同様のことが言える。物理学者には物理学を論じるための専門用語があるように、鉄道員には鉄道員の専門用語がある。また、法学者には法学を論じるための専門用語があるように、漁師には漁師の専門用語があるのだ。

専門用語を使う理由

まずは、専門家が専門的な文章を書くときに専門用語をわざわざ使う理由について考えてみよう。

先に挙げたコラムに書かれているように、「個人的な知的遊戯に浸」るために専門用語を使うのだろうか。あるいは、門外漢が容易に入って来られないようにするために専門用語を使うのだろうか。否、そのどちらでもない。

専門用語は、文章を小難しくするために用いられるのではない。無論、専門家が学をひけらかすために難しい用語を使っている例が全くないわけではない。だが、多くの専門家はむしろ文章を分かりやすくするために専門用語を用いている

実際、専門用語を使わないとすると、かえって分かりにくくなってしまう。専門用語というほど大げさなものではないかもしれないが「素数」という言葉について考えてみよう。もし、「素数」という言葉が使えなければ、「1かそれ自身でしか割り切れることができない2以上の整数」という回りくどい表現をしなくてはならない。素数という概念を知らない小学生に対して説明するならともかく、素数とは何かと分かっている人にとっては単に「素数」と書いてくれたほうがよほど分かりやすいだろう。

「素数」の例と同じく、専門用語を用いればややこしい概念を簡潔に書くことができる。また、読者がすでに持っている知識を想起させることもできる。

専門家集団には、その集団の中で共有されている知識がある。その道の専門家であれば誰でも知っているような知識だ。そういった知識は専門用語の形で表されていることが多い。よって、専門用語を使って文章を書けば、その知識を簡単に参照することができる。

専門用語を使うことは巨人の肩に載ることを容易にする
専門用語を使うことは巨人の肩に載ることを容易にする [2]

たとえ話をしてみよう。長年連れ添った夫婦を考えてみる。夫が妻に「いつものレストランで夕飯にしよう」と言った場合、他人にとってはどのレストランか見当がつかないが、妻にとってはすぐに見当がつく。夫婦の中で共有された知識があるから見当がつくのだ。知識が共有されていなければ、例えば「大通りの三丁目の交差点から東にのびている小道を3ブロック進んだところにあるイタリアンレストランで、ピザがおいしいレストランで夕飯にしよう」といったような面倒な説明をする必要が出てくる。専門家集団における専門用語というのも、この夫婦の例と同じようなものだ。

また、専門用語は通常しっかりとした定義がある。このことも専門用語を使う利点だ。物事をしっかりと定義するというのは、なかなか難しいことである。下手をすると、定義を論じるだけで何ページも文章を書く必要が出てくることすらある。その何ページにも及ぶかもしれない定義を読む方も大変である。

しかし、しっかりと定義されている専門用語を使えば、自分でわざわざ定義をしなおすという手間が省ける。そして、専門的な文章の読者の方も、新たな定義を覚える必要なしに、その文章を読むことができる。そして、専門家集団の中の共通知識を生かして理解することができるのである。

なお、論者によって定義が違う専門用語がないわけではない。だが、例えば学術論文の場合、「山田一郎が定義したように…」と言えばどの定義か了解することができるので、そんなに問題は起きない。

要するに、専門用語を使うと、専門家集団の中の共通知識を思い起こさせることができ、簡潔な説明ができるのだ。 よって、専門用語を専門的な文章の中で使うことで、かえって分かりやすくなるのである。

学術研究について言えば、これは巨人の肩の上に載って行うものである。つまり、今まで蓄積されてきた成果という巨人の肩の上に載ることで、新しい成果を少しずつ出していくものだ。専門用語をうまく用いなければ、この巨人の肩に登ることすら困難なのだ。

日常語と意味がずれている専門用語に注意

話の本筋からは離れるのだが、専門的な文章を読む際に注意すべきことを1つ挙げておきたい。それは、専門的文章の中で出てくる専門用語は日常語と意味がずれていることがあるということである。

例えば、集合論での専門用語に「濃度」というものがある。日常語での「濃度」とは濃さを意味する。しかし、集合論の「濃度」はそれとは意味が大きく異なっており、平たく言えば、個数を拡張した概念である。集合論に関する専門的な文章を読む際に、「濃度」を日常語の意味でとらえてしまうと、話が通じなくなってしまう。集合論の専門用語として「濃度」があるということを知らない限り、正確に理解できないのだ。

また、日常語に比べて、専門用語は厳密に定義されていることが多い。日常語の感覚だと当てはまるのに、専門用語の定義としては当てはまらないという例はたくさんあるし、その逆もたくさんある。

では、日常語と専門用語とのずれをちゃんと理解できるようにするにはどうすれば良いだろうか。学問に王道なし。理解できるようにするには訓練が必要である。

専門的な文章を読むには訓練が必要

専門的な文章をしっかりと読み解くには訓練が必要だ。先に述べたような専門家集団内で共有される知識を身につけるための訓練が必要なのだ。このことは、当たり前と言えば当たり前なのだが、意外と知られていない。このため、冒頭で触れた記者のように勘違いをしてしまうのだ。

専門的な文章を理解することは、山登りのための訓練にたとえることができる。しろうとがいきなり高い山に登ろうとしても、それは無理だ。しっかりと山登りの訓練をしなくてはならない。そうでなければ、頂上にはたどりつかないし、途中で遭難してしまうかもしれない。山登りの訓練をしっかりと済ませることで、はじめて安心して山に登ることができる [3] 。あくまでも、こつこつと訓練を積み重ねていくことが大事だ。

専門的な文章を理解するには積み重ねが重要
専門的な文章を理解するには積み重ねが重要 [4]

一朝一夕で専門的な文章を読めるようになることはほとんどない。しっかりと着実に学ぶしかないのだ。これをせずに、専門的な文章を理解しようとするのは高慢である。たとえ話を続けるとしたら、こんな感じになるだろうか。

おれはこの山のてっぺんまで登るために必要な能力はないし、わざわざ登るための能力を身につける気はない。だが、てっぺんからの景色をこの目で見てみたい。そうだ。そこのてっぺんまでいつも登っているおまえら、おれをてっぺんまで連れて行け。言っておくが、おれは体を動かす気はないからな。

おそらくこう言う人はいくら経っても頂上に行けないだろう。頂上からの景色を自分の目で見るには、しっかりと訓練を積んで自分の足で登るしかないのだ。

なお、学術関連の専門的な文章を理解したければ、時間はかかるものの、専門の大学に通うのが確実だ。専門性というのはちょっとやそっとで身に付くものではない。そういう面倒なものなのだ。

まとめ

要するに、専門家同士はお互いが分かりやすいように専門用語を用いて文章を書く。こうした専門的な文章を読むのは、一般人にとって簡単なことではない。そして、もし、専門の話を理解したければ、ちゃんと訓練を積まなくてはならない [5]

脚注
  1. 学術論文と新聞記事とは対象読者が大きく異なっている。専門紙を除けば、新聞記事は広く一般の読者が読むものである。このため、新聞記者は、一般人が理解できる言葉で記事を書かなくてはならない。このコラムを書いた記者はこうした新聞記事執筆の常識が、学術論文にも適用できると思ってしまったのかもしれない。 []
  2. Flickrより、Hans Dinkelberg氏によるCC BY 2.0画像を使用 []
  3. むろん山に登る訓練をしっかりとしたとしても、滑落する可能性はある。だが、訓練をしていない場合に比べればその可能性はかなり低くなる。専門的な文章を理解するための訓練を積んだとしても、理解に失敗する可能性はあるが、訓練を積まないよりは失敗しにくいということだ。 []
  4. Flickrより、epSos.deによるCC BY 2.0画像を使用 []
  5. なお、専門家が一般人向けに文章を書く場合は、一般人が専門用語を理解しないということに注意しなくてはならない。相手に応じて書くということだ。 []