“氕”、“氘”、“氚”とは? 中国語での水素の同位体の表記

概要
“氕”、“氘”、“氚”はそれぞれ中国語で軽水素、重水素、三重水素を意味する漢字である。

はじめに

中国語で用いられる漢字に、“氕”、“氘”、“氚”がある。これは水素の同位体を表すために用いられる漢字だ。

(piē)”、“(dāo)”、“(chuān)”はそれぞれ軽水素、重水素、三重水素を表す。部首の“气”(きがまえ)の下に、線が1本、2本、3本と増えていっているのだ。

“氕”、“氘”、“氚”はそれぞれ軽水素、重水素、三重水素を表す中国語の漢字だ。
“氕”、“氘”、“氚”はそれぞれ軽水素、重水素、三重水素を表す中国語の漢字だ。

面白いのは、この部首の下にある線の数が質量数と一致することだ。例えば、軽水素は陽子1個だから質量数も1。そして“氕”の部首の“气”の下には線が1本。重水素は陽子1個で中性子1個で質量数が2。そして“氘”は線が2本。さらに三重水素は陽子1個と中性子2個で質量数が3。そして“氚”は線が3本。(あるいは、はらい〔丿〕1本が陽子1個、縦棒〔丨〕が中性子1個と解釈してもよいかもしれない。)

ちなみに、単に水素を表したい場合、“(qīnɡ)”となる。なお、水素に限らず、中国語の元素を表す漢字は、標準状態で気体となる場合、“气”(きがまえ)を用いることになっている [1]

“氕”(軽水素)

軽水素“氕”の中国語での音は “piē”だ。軽水素のことをプロチウム (protium) と言う。確証はないが、プロチウムの p から始まるところから“piē”という発音がつけられたのではないかなと思う。ちなみに、部首の下の“丿”は単独の漢字として読む場合、“piě”と読む。

この字はいつごろから用いられているのだろうか。もっと古い用例があるかもしれないが、1947年に出版された化学用語の英中辞典で、以下の記載がある。

Protium, H1, 氕(音撇),氫1

徐善祥、鄭蘭華 (1947). 《英漢化學新字典》上海:中國科學圖書儀器公司. p.1062

つまり、プロチウムの中国語訳として“氕”を挙げている。そして、その音が“(piē)”であるとしている。

なお、1941年に出た書籍で、軽水素のことを“气”(きがまえ)に“卜”で表している例があった。“卜”の音は“bǔ”なので、この“气”+“卜”という字も“bǔ”と読む可能性が高い。

1941年の書籍で軽水素を表すのに用いられた漢字。“气”(きがまえ)に“卜”で表している。
1941年の書籍で軽水素を表すのに用いられた漢字。“气”(きがまえ)に“卜”で表している。

輕氫核名■核,則重氫核可名氘 (Deuteron or Deuton) 亦有稱為氘質子 (Diplon) 者。(引用者注:■は“气”(きがまえ)に“卜”)

千谷利三〔著〕,張墨飛〔譯〕(1941). 《重氫與重水》開明書店. p.61

この書籍は、日本語で書かれた『重水素と重水』という書籍を中国語に訳したものである。日本語の原文では、次のように書かれている。

輕水素核をプロトンと名づくるに對し.重水素核をデユウテロン (Deuteron) 或は省略してデユウトン (Deuton) 又人によりてはヂプロン (Diplon) 等と呼ぶ事がある。

千谷利三 (1934).『重水素と重水』東京:裳華房. p.81

すなわち、「プロトン」を“■核”(■は“气”(きがまえ)に“卜”)と表しているわけだ。プロチウム (protium) またはプロトン (proton) の p という音を踏まえ、類似する“bǔ”という音になるよう、“气”(きがまえ)に“卜”という漢字を使ったのだろう。

“氘”(重水素)

重水素“氘”の中国語での音は、“dāo”だ。重水素はデューテリウム (deuterium) とも呼ばれる。これも確証はないが、このデュー (deu-) に音が似ていることから、“dāo”を取ったのではなかろうか。なお、“刀”の異体に、線を2本引いた“刂”がある。“刀”の発音も“dāo”になるので、そこから“氘”の“dāo”という音が来ているとも言える。

なお、重水素は中国語で“(zhòng)(qīng)”と言うこともある。重い水素という意味である。

この文字は、先ほど1941年の書籍から引用した箇所でも使われている。

また、先ほど引用した1947年の化学用語の英中辞典でも、重水素の訳として“氘”を挙げている。

Deuterium, D 或 H2, 氘(音刀),氫2

徐善祥、鄭蘭華 (1947). 《英漢化學新字典》上海:中國科學圖書儀器公司. p.238

ここでは、音が“(dāo)”であると記しており、昔からこの字を“dāo”と読んでいたことが分かる。

“氚”(三重水素)

三重水素“氚”の中国語での音は、“chuān”だ。あえて仮名で表記すると「ツワン」みたいな音だ。三重水素はトリチウム (tritium) と言うけれども、トリチウムと“chuān”はけっこう音が違うように思えるかもしれない。だけれども、中国語話者の感覚からすると、案外近い音のようだ。例えば、アメリカのトランプ (Trump) 元大統領のことを中国語で“(Chuān)()”と言うことがある [2] 。つまり、英語で tr で始まるところを中国語で “chuān”にしている。だから、tr から始まるトリチウムを“chuān”にしてもさほど変な話ではない。

“氚”の部首の“气”の下には3本の線がある。この3本の線は要するに“川”だ。“川”の発音は“chuān”であり、ここから“氚”の“chuān”という音が来ているのだろう。

なお、三重水素は中国語で“(chāo)(zhòng)(qīng)”と言うこともある。非常に重い水素という意味である。

三重水素“氚”が用いられている古い例としては、先ほど挙げた1941年の書籍での例がある。

若有預料質量為3之同位元素H3發現,則可援上例而名為氚(Tritium)。

千谷利三〔著〕,張墨飛〔譯〕(1941). 《重氫與重水》開明書店. p.94

先に述べたように、上に引用した書籍は日本語からの翻訳である。日本語の原文では以下のように記されている。

若し又豫想せらるゝ質量3の同位元素H3が發見せられしならば.上と同樣にしてトリチウム(Tritium)と呼ぶ事が出來る。

千谷利三 (1934).『重水素と重水』東京:裳華房.p.125

さて、この中国語訳が出版されたのは1941年である。それに先立つ1934年に英国のキャヴェンディッシュ研究所のマーク・オリファントらが、トリチウム生成に成功したことを報告する論文を発表している [3] 。それにもかかわらず、上記の引用でトリチウムがまだ発見されていないような書きぶりになっているのは、この書籍の日本語原著が書かれたタイミングのせいであると思われる。日本語原著の序言には、1934年7月末までに発表された論文を元に書いた本であることが記されている。オリファントらの論文が発行されたのは1934年3月17日であるが、執筆数か月前に出た論文の内容を反映できなかったことは決して変なことではないだろう。

また、先ほど引用した1947年の化学用語の英中辞典でも、三重水素の訳として“氚”を挙げている。

Tritium, T 或 H3, 氚(音川),氫3

徐善祥、鄭蘭華 (1947). 《英漢化學新字典》上海:中國科學圖書儀器公司.p.1228

ここでは、音が“(chuān)”であると記しており、昔からこの字を“chuān”と読んでいたことが分かる。

脚注
  1. 王宝瑄.(2007). 〈元素名称考源〉《中国科技术语》 2007年第4期, 55–58. http://www.term.org.cn/CN/Y2007/V9/I04/55 []
  2. トランプ元大統領のことは、中国大陸では“特朗普”と言うことが多く、台湾では“川普”と言うことが多い。 []
  3. Oliphant, M., Harteck, P., & Rutherford. A. (1934). Transmutation Effects observed with Heavy Hydrogen. Nature, 133(3359), 413. https://doi.org/10.1038/133413a0 []