はじめに
学術論文の価値はその長さで決まるわけではない。短い論文であっても価値があるものは少なくない。例えば、DNAが二重螺旋構造をしているというワトソンとクリックの1953年の論文 [1] は、たったの2ページしかない。この20世紀で最も重要な科学的発見を示した英語で書かれた論文の語数は、1000語に満たないのだ。これだけの短い論文であるが、この発見によってワトソンとクリックはノーベル医学・生理学賞を受賞することになった。
それでは、短い学術論文はどこまで短いのだろうか。
要約文が短い論文
学術論文には、普通、数十語から数百語の要約文(アブストラクト)を付す。だが、この要約文が非常に短い論文が存在する。
ベリーらによる2011年の量子論に関する論文 [2] の要約文は“Probably not”(たぶん、そうではない)という2単語しかない。
ベリーらの論文のタイトルは“Can apparent superluminal neutrino speeds be explained as a quantum weak measurement?”(見かけ上超光速のニュートリノの速度は量子弱測定で説明できるか?)という疑問文であり、要約文はこの疑問に答える形になっている。
ハジュコビッチとザッツによる1992年の論文 [4] の要約文はさらに短く“No”(いいえ)という1単語しかない。
この論文のタイトルは“Does the one-dimensional Ising model show intermittency?”(一次元イジングモデルは間欠性を示すか?)というもので、このタイトルの答えが要約文の“No”(いいえ)という1単語になっている。
ここで挙げた2つの論文は、いずれもタイトルを疑問文にすることで論文が扱っている内容を明確にしている。このことによって、要約文を短くすることに成功しているのである。
本文が短い論文
それでは、要約文が短いのではなく、本文が短い論文にはどういうものがあるのだろうか。
数学上の予想に対する反例を挙げたランダーとパーキンの1966年の論文 [6] は、たったの2文で構成されている。
この論文のタイトルは、“Counterexample to Euler’s conjecture on sums of like powers”(等しい累乗の和に関するオイラーの予想 [8] に対する反例)であり、オイラーという数学者がなした予想に対する反例を2文で挙げている。数学上の予想を否定するためには、反例を1個挙げれば良いので、このように短い論文になったのだ。
このほか、幾何学上の作図方法の存在を示した論文で、たったの2文から構成されているものがある [9] 。ただし、文だけでなく、説明のための図も付されている。
また、アメリカの数学者のコンウェイとソイファーはできるだけ短い論文を書こうとして、たった2単語からなる論文を書いたという。ただし、2単語で完結しているわけではなく、説明のための図が2つ付いている。この論文は、『アメリカン・マスマティカル・マンスリー』に掲載された [10] 。なお、この論文はソイファーの書いた別の文章に転載されているのを読むことができる。
これよりもっと短い論文はあるのだろうか。ある。
それはデニス・アッパーの1974年の論文 [11] である。この論文は、なんと、本文が全く書かれていない。単語数で言うと、0語である。
この論文のタイトルは、“The unsuccessful self-treatment of a case of ‘writer’s block’”で、和訳すると「『書くことができないこと』の症例に対する自己治療の失敗」になる。要するに、「書くことができないこと」の治療に失敗したので、何も書けなかったというわけだ。
この論文の査読者のコメントが光っている。以下に和訳して引用しよう。
なかなかウィットに富んだコメントではないだろうか。
追記
以下は2015年5月3日に追記されたものである。
実は、上述のデニス・アッパーの論文以外に、0語の論文があることが分かった。
フィエンゴとラスニックが書いた言語学に関する論文 [13] は本文も要約文も1文字も書かれておらず、タイトル・著者名・著者の所属機関が書いてあるだけである。この0語の論文のタイトルは“On nonrecoverable deletion in syntax”(統語論における回復不可能な削除)であり、回復不可能なほど単語を削除してしまったがゆえに何も残らなかったということを意味しているのだと考えられる。
また、上述のデニス・アッパーの論文の追試と称して、0語となった論文 [14] もある。(2015年5月3日再追記:他にもアッパーの論文の追試は存在する。追試して「書くことができないこと」の治療に失敗し、結局0語しか書けなかった論文が2本 [15] 存在する。さらに、「書くことができないこと」の治療に部分的に成功して、1つの完全な文と1つの書きかけの文だけで構成された論文 [16] が存在する。 )
このほか、@davidsdのTwitterでのつぶやき [17] によれば、レンツの1951年の物理学の論文 [18] は2文で構成されている非常に短い論文だそうである。
以下は2018年9月18日に追記されたものである。
要約文が1語である論文の例を1つ追加したい。ハフの2018年の地震学に関する論文は、要約が “No.” としか書かれていない [19] 。この論文もまたタイトルを疑問文にしている。そして、要約ではタイトルの疑問に対して1単語でノーと答えているのである。
- Watson, J. & Crick, F. (1953). Molecular structure of nucleic acids: A structure for deoxyribose nucleic acid. Nature 171, 737-738. [↩]
- Berry, M. V., Brunner, N., Popescu, S. & Shukla, P. (2011). Can apparent superluminal neutrino speeds be explained as a quantum weak measurement?. Journal of Physics A: Mathematical and Theoretical 44 (49), 492001. http://iopscience.iop.org/1751-8121/44/49/492001/ [↩]
- http://iopscience.iop.org/1751-8121/44/49/492001/pdf/1751-8121_44_49_492001.pdf のPDFを画面キャプチャしたものである。 [↩]
- Hajduković, D. & Satz, H. (1992). Does the one-dimensional Ising model show intermittency? (CERN-TH-6674-92, BI-TP-92-43). http://inspirehep.net/record/342008 [↩]
- http://ccdb5fs.kek.jp/cgi-bin/img/allpdf?199301299 のPDFを画面キャプチャしたものである。 [↩]
- Lander, L. J. & Parkin, T. R. (1966). Counterexample to Euler’s conjecture on sums of like powers. Bulletin of the American Mathematical Society, 72, 1079. http://www.ams.org/journals/bull/1966-72-06/S0002-9904-1966-11654-3/ [↩]
- http://www.ams.org/journals/bull/1966-72-06/S0002-9904-1966-11654-3/S0002-9904-1966-11654-3.pdf のPDFを画面キャプチャしたものである。 [↩]
- $n, k$が2以上で、$n$が$k$以上であるとき、$\sum_{i=1}^{n} a_{i}^{k} = b^{k}$ を満たすゼロでない整数の組み合わせはないという予想。〔本脚注は2015年5月3日に修正したものである。〕 [↩]
- Niemeyer, J. (2011). A simple construction of the golden section. Forum Geometricorum, 53. http://forumgeom.fau.edu/FG2011volume11/FG201105index.html および Bataille, M. (2011). Another simple construction of the golden section. Forum Geometricorum, 55. http://forumgeom.fau.edu/FG2011volume11/FG201106index.html [↩]
- Conway, J. H. & Soifer, A. (2005). Covering a triangle with triangles. American Mathematics Monthly, 112 (1), 78. [↩]
- Upper, D. (1974). The unsuccessful self-treatment of a case of “writer’s block”. Journal of Applied Behavior Analysis, 7 (3), 497. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1311997/ [↩]
- http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1311997/pdf/jaba00061-0143a.pdf のPDFを画面キャプチャしたものである。 [↩]
- Fiengo, R. & Lasnik, H. (1972). On nonrecoverable deletion in syntax. Linguistic Inquiry, 3, 528. [↩]
- Didden, R., Sigafoos, J., O’Reilly, M. F., Lancioni, G. E. & Sturmey, P. (2007). A multisite cross-cultural replication of Upper’s (1974) unsuccessful self-treatment of writer’s block. Journal of Applied Behavior Analysis 40 (4), 773. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2078566/ [↩]
- Molloy, G. N. (1983). The unsuccessful self-treatment of a case Of “writer’s block”: A replication. Perceptual and Motor Skills 57, 566. http://www.amsciepub.com/doi/abs/10.2466/pms.1983.57.2.566 および Skinner, N. F., Perlini, A. H., Fric, L., Werstine, E. P. & Calla, J. (1985). The unsuccessful group-treatment of “writer’s block”. Perceptual and Motor Skills 61, 298. http://www.amsciepub.com/doi/abs/10.2466/pms.1985.61.1.298 [↩]
- Hermann, B. P. (1984). Unsuccessful self-treatment of a case of “writer’s block”: A partial failure to replicate. Perceptual and Motor Skills 58, 350. http://www.amsciepub.com/doi/abs/10.2466/pms.1984.58.2.350 [↩]
- davidsd. (2014, Feb 28). Ah, the good old days when physics papers were shorter pic.twitter.com/cKGACmmcrN [Twitter post]. Retrieved from https://twitter.com/davidsd/status/439201672133238785 [↩]
- Lenz, F. (1951). The ratio of proton and electron masses. Physical Review 82 (4), 554. [↩]
- Hough, S. E. (2018). Do large (magnitude ≥8) global earthquakes occur on preferred days of the calendar year or lunar cycle? Seismological Research Letters, 89(2A), 577–581. [↩]