「元旦」で1月1日全体を指すことは別に誤りというわけではない

概要
「元旦」は1月1日の朝を指し、1月1日全体を指すわけでないという説がある。しかし、用例を見ると、「元旦」で1月1日全体を指すことが誤りだとは言い切れないように思われる。

「元旦」=「1月1日の朝」説

元旦」という言葉は1月1日の朝を指し、1月1日全体を指すわけではないと説明する人がいる。この説明に基づけば、「元旦の夜」というのは語義矛盾であり、「誤った」言い方になる。

しかし、私としては、この説に反対したい。「元旦」で1月1日全体を指すことは別に誤りというわけではないと思うのだ。実際、後に示すように、「元旦」で1月1日全体を指し示す事例はとてもたくさんある。一般の人だけでなく、太宰治や坂口安吾といったちゃんとした文章を書く小説家ですら、「元旦」を1月1日の朝に限定しておらず、むしろ全体を指すものとして使っている。

「元旦」=「1月1日の朝」説の事例

私からの反論を書く前に、まずは「元旦」が1月1日の朝を指すという説の事例を見ていきたいと思う。例えば、NHK放送文化研究所のウェブサイトでは、「放送現場の疑問・視聴者の疑問」というコーナーで「元旦」という言葉について以下のように説明している。

「元旦」は「元日の朝」を表すことばですので、「元旦の朝」は重複表現。また、「元旦の夜(午後)」というのは間違いです。

<例> ×元旦の朝は、○○の番組をお楽しみください。 ×元旦の夜(午後)は、いかがお過ごしですか。

豊島秀雄.(1998). 「1月1日の朝は、なぜ「元旦」という?」『NHK放送文化研究所』.

ここでは、「元旦」を「元日の朝」、すなわち1月1日の朝として捉えている。そして、「元旦の朝」が重複表現、「元旦の夜」が誤りであると指摘している。しかしながら、先にも触れたように、「元旦」が1月1日全体を指すものだとすれば、「元旦の朝」も「元旦の夜」もおかしくないことになる。

「元旦」=「1月1日の全体」とする例

著作権の切れた文学作品などを公開している青空文庫を見てみると、「元旦」をもって1月1日全体を指す例が色々見つかる。

例えば、以下の引用文で元旦を「一月一日の朝」と捉えると、1文目は意味がおかしくなってしまう。「一月一日、今日は一月一日の朝である」というのは変だ。「一月一日は、今日は一月一日そのものである」と解釈するのが妥当であろう。

一月一日、今日は正月元旦である。昨夜降り積つた雪が、今朝もまだ真白に残つてゐる。東天に向つて初日の出を拝す。心気爽かにして、一年の計ここに成る、と書かれてゐる。

岸田國士:「日記について」、初出1935年

「元旦」を「二日」、「三日」と並列する例

以下の永井荷風の日記では、「元旦」が「二日」、「三日」と並列されており、「元旦」が「一月一日」と同じ意味であることがうかがわれる。

正月元旦。間適の余生暦日なきこと山中に在るが如し。午後鷲津牧師来訪。この日風なく近年稀なる好き正月なり。されど年賀に行くべき処なければ、自炊の夕餉を終りて直に寝に就く。

正月二日。快晴和暖昨日の如し。

正月三日。快晴。市中電車雑遝甚しく容易に乗るべからず。歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。

永井荷風:『断膓亭日記巻之四大正九年歳次庚申』、1920年

また、下記でも、「元旦」が「二日」、「三日」と並列されている。もし「元旦」が1月1日の朝しか指さないのであれば、1月1日の昼や夜がすっぽりぬけてしまう。

元旦、二日、三日、四日は遊んで暮してしまった。

太宰治:「正義と微笑」、1942年

「元旦」という言葉で昼以降を指し示す例

次に、「元旦」という言葉で明らかに朝以外の時間帯を指している例を見てみよう。

その中元旦の日が暮れて、燈火が家毎に燈るようになった。

国枝史郎:「戯作者」、1925年

また、以下では「元旦のちょうど昼ごろ」、「元旦正午」、「元旦の晩」といった用例が見られる。「元旦の夜」を誤りとするNHK放送文化研究所のウェブサイトからするとおかしいことになるのだろうが、何の問題もなく用いられているのだ。

昭和六年の元旦のちょうど昼ごろに、麻布の親類から浅草の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。

寺田寅彦:「銀座アルプス」、1933年

元旦正午、DC四型四発機は滑走路を走りだした。

坂口安吾 新春・日本の空を飛ぶ、1951年

何しろ今夜は正月元旦の晩だ。

原民喜「飯田橋駅

古い例ばかりでは納得のいかない人もいるだろうから、『現代日本語書き言葉均衡コーパス』に載っている比較的最近の例も挙げてみよう。

元旦の夕方になると、品川・南馬場の旧街道(東海道)に近いわが家には、三々五々仲間が集まってきます。

内田礼子 『一女優の歩み』、1993年

ある元旦の夜のこと、それらしく食卓はととのえられ、とくに早く食べてもらいたい一品が湯気をたてていた。

沢地久枝 『一人になった繭』、1995年

このように、「元旦の夕方」や「元旦の夜」と、朝ではない時間帯で「元旦」が実際に用いられている

「元旦の朝」と述べる事例

先ほど触れたNHK放送文化研究所のウェブサイトの説明では「元旦の朝」というのが重複表現だと言われていた。しかし、「元旦の朝」という用例も色々とある。青空文庫で探してみると、以下のような例がある。

彼は大晦日の晩から元旦の朝へかけて徹夜で仕事をしなかった年は、ここ数年来一度もないという。

織田作之助「」、1946年

京都の博物館へ元旦の朝から乗り込んで一日中縮図していて係員を驚かせたりしたこともなつかしい。

上村松園「縮図帖

元旦の朝はその一年というものが非常に長いように思われる。

大倉燁子「今年の抱負」、1950年

また、『現代日本語書き言葉均衡コーパス』に載っている比較的最近の例でも「元旦の朝」と言っているものがある。

また、元旦の朝、折り目正しい一種の儀式が行われた。

大原穣子『故郷のことばなつかし』、1994年

静かな元旦の朝、炬燵へはいって一枚一枚ゆっくり賀状をみるのは楽しい。

沢村貞子 『私の台所』1981年

結論

結局の所、「元旦」という言葉で、1月1日全体を指す例は少なくない。これらすべてを「誤り」として切って捨てるべきではないと思う。むしろ、日本語の「元旦」には1月1日全体を指す例が確固として存在するのだと考えた方が自然だろう。

追記:「旦」という字は朝を示す字だからという意見に対する反論

この節は2018年1月2日に追記したものである。

この記事を公開したところ、「旦」という字は朝を示す字だからとか、日の出を示す字だからというコメントが色々と出てきた。例えば、以下のようなコメントがある。

こうしたコメントは短いので、いまいち何を指すのか分からないのだが、「旦」という字は朝や日の出を示す字だから、「元旦」はあくまでも1月1日の朝を指すのが正しく、1月1日全体を指すわけではないと言いたいのかもしれない。元々「旦」という漢字ができたときの意味が朝や日の出を示すということを私は否定するつもりはない。しかしながら、「旦」という字は朝を示す字だからという理由で、「元旦」はあくまでも1月1日の朝のみを指すという主張に持っていくのは無理があると私は考えている。

ここで重要になってくるのが、現代の日本語の用法を考えるにあたっては、必ずしも中国で漢字が作られた際の意味を考える必要はないということである。例えば、「電」という字は元々は稲妻のことを指すために作られた漢字だ。だが、現代の日本語では「電」という字で、人間によって作られた電気を指すことがある。「電車」という言葉に対して、稲妻で動く車だと捉えることはない。「電」は元々稲妻を指すのだから稲妻以外の力で走る車に対して「電車」と言うのはおかしいと言う人がいるだろうか。言葉の意味は常に変化するものなので、元々の意味にこだわっても仕方がないのだ。

なお、付言すると、「元旦」という語に1月1日の朝という意味があることに反対するつもりはない。私の主張は、「元旦」には1月1日の朝という意味しかないわけではないということだ。つまり、1月1日の朝という意味に加えて、1月1日全体を指す意味があると考えるのが妥当であろうということだ。

追記:「誤用」の用例を積み重ねても意味はないという意見に対する補足

この節は2018年1月2日に追記したものである。

また、「元旦」を1月1日の朝以外の意味で使っている用例があっても、それらはあくまでも「誤用」であり、「誤用」を積み重ねても意味がないという意見が出てきた。例えば、以下のようなコメントがある。

tsu_nyan 氏は、私が上で挙げた例はあくまでも「誤用」であると断じており、それをいくら積み重ねても意味がないという立場に立っているのだろう。primedesignworks 氏はそこまで明確に述べていないが、名だたる文学者が「誤用」しているだけであると言いたいのだろう。

こうした主張の根底にあるのは、何が「正しい言葉づかい」であるかを判断できる規範がどこかに存在して、その規範に照らして「誤用」であると判断できるというものであろう。その観点から見ると、FlowerLounge 氏のコメントは非常に興味深い。FlowerLounge 氏は、言語に関する規範を道路交通規則に喩えている。道路交通規則は明文化された規則として存在し、それに反することをすれば誤りとして罰せられる。言葉に関しても規範が存在し、それに反することは「誤用」として断じられるという感覚があるのだろう。

このような言語観があることを否定はしない。だが、私はそう考えていない。むしろ、言葉というものは、あくまでも現実に行われている言語使用の総体である。こうした言語観においては、規範に違反しているかどうかではなく、多くの人が用いてそれでコミュニケーションが成立するかという点が重要になる。このため、私は「元旦」を1月1日の朝以外の意味で使っている用例を多数挙げたのだ。こうした言語観は私独自のものではなく、言語学者なら大体そのように考えるところだろう。この辺の話は語り出すと長くなるので、興味がある方は言語学の入門書でもご覧いただきたい。

さて、このような言語観に立てば、先に引いた Dai44 氏のコメントは非常に興味深いものになる。Dai44 氏は「用例があることで誤りでないとするのはなかなか無理」と言っており、「誤用」の用例を積み重ねても意味はないという立場に立っているのだろう。しかし、興味深いのはその後の一言である。Dai44 氏は「ピザ10回言っても肘は肘」と言っている。もし一個人だけが肘のことを「ピザ」と呼んだとしたら、それで他の人とのコミュニケーションは成立しないだろう。しかし、もし日本語話者の多くが肘のことを「ピザ」と呼ぶようになれば、それでコミュニケーションが成立することになる。そうなれば、肘のことを「ピザ」と呼ぶことは日本語の用法として許容されるものとなるのである。

「元旦」についても同様で、一個人だけが1月1日全体を指し、他の人がみな1月1日の朝しか指さなかったとしたら、コミュニケーションは成立しなくなる。しかし、多くの人が「元旦」で1月1日全体を指す状況においては、コミュニケーションは十分に成立し、その意味・用法が許容されることになるのだ。上記で「元旦」のさまざまな用例を挙げたのは、多くの人が使っており、それでコミュニケーションが成立しているということを示しているに過ぎないのだ。

要するに、言語には規範があり、それに反するものは「誤用」だとする言語観からすれば、「元旦」で1月1日全体を指す用例をいくら積み重ねても意味がないということになる。しかし、実際の言語使用から言語を捉えようとする言語観からすれば、用例を積み重ねることに意味はあるということになる。

補:中国語の辞書での説明

蛇足であるが、中国語の辞書をいくつか見てみたところ、“元旦”を単に一月一日と説明しているものばかりだった。朝と限定しているものは見当たらなかった。

例えば、《现代汉语词典(第6版)》では“公历新年的第一天”と述べるのみであり、《教育部重編國語辭典修訂本》では単に“一年的第一日”としている。

補:日本語の辞書での説明(2020年1月1日追記)

日本語の辞書、要するに国語辞典では「元旦」をどう説明しているだろうか。『三省堂国語辞典(第7版)』(2014年)では、「元旦」の語釈として「①元日の朝」と「②〔あやまって〕元日」の2つを挙げている。2番目の語釈に「あやまって」とあるのは、上述のNHK放送文化研究所のウェブサイトと軌を一にするものであろう [1] 。これに対して、『大辞林(第4版)』では、「元日の朝。……また、一月一日」(2019年)と説明しており、一月一日という語釈を誤りとはしていない。ほかの辞書もいくつか見てみたが、最近の国語辞典は「元日の朝」と「一月一日」という2つの語釈を挙げて、辞書によっては後者を誤りとするのが通例のようである。

もっと古い国語辞典だとどうだろうか。網羅的に調べたわけではないが、古い国語辞典ほど、「一月一日」という語釈しか挙げておらず、「元日の朝」という語釈が出てこない。

こうやって時代順に並べてみると、大正の頃に「元旦」は1月1日の朝を示すという規範意識が浮上してきたように思える。もう少し調べないと分からないところではあるが。

脚注
  1. 2024年1月1日追記:『三省堂書店』の第8版では、語釈が変更され「②元日。「――の夜」」と「あやまって」の記載が無くなった。さらに「②は昔から例があり、漢字の意味とも合うが、今は違和感を持つ人もいる。」という解説が付加された。 []