はじめに
かつて小説家の井上ひさしは、日本の政治家が漢字の字形を変えようとしたことに関し、『私家版日本語文法』の中で以下のように述べたことがある。
つまりは言葉をいじるのは権力者のすることではないと言いたかったのだろう。
ところで、権力者が言葉をいじろうとした例は過去にも見られる。今回は権力者がその権力をもって言葉を変えようとしてうまくいかなかった事例を2つ紹介したいと思う。
皇帝は文法家の上にあらず
1414年に始まったコンスタンツ公会議のときの話である。 時の神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントが演説した際に、schisma という名詞 [1] を女性名詞として使ってしまった。しかし、この schisma という名詞は中性名詞である。
このため、ある人が皇帝に対して、文法的に誤っていると指摘した。すると、皇帝ジギスムントは、 schisma を中性名詞でなく女性名詞にせよと命令しようとした [2] 。この無茶な命令に対して言われたのが以下の言葉である。
結果として、今も schisma は中性名詞のまま残っている。
皇帝は言葉に市民権を与うることあたわず
もう1つ似たような話を挙げよう。ローマの歴史家スエトニウス (Gaius Suetonius Tranquillus) が『文法家列伝』(De grammaticis) [4] に次のような話を載せている。
1世紀のローマの皇帝ティベリウス (Tiberius) の演説に言葉の誤用があった。法律家のカピト (Gaius Ateius Capito) は、この誤用はラテン語として問題ないだろうし、そうでなければ今から正しいものであるようにすれば良いと述べた。これに対して、文法家のマルケルス (Marcus Pomponius Marcellus) は、カピトに反論して次のように述べた。
要するに、皇帝は市民権を与えるという法的な行為を行うことはできるが、ある言葉が誤用かそうでないかを決めることはできないということである。文法は政治権力の埒外ということなのだ。
関連情報
- 安倍晋三首相が2017年4月19日に「そもそも」に「基本的に」という意味を与えている辞書があると発言したことについての報道。
- 南彰.(2017年4月19日).「首相答弁の『そもそも』、意味はそもそも? 国会で論戦」『朝日新聞デジタル』
- 毎日新聞.(2017年5月12日).「政府答弁書:『そもそも』は基本的に 文法的にどだい無理」
- 毎日新聞.「アクセス:大丈夫?首相の言葉 『そもそも=基本的に』辞書になし 訂正でんでん、私は立法府の長…粗雑さ露呈」
- 辞書に詳しい人からのツッコミ
- ながさわ.(2017年4月19日).「 安倍首相の辞書はどれだ! 『そもそも』を『基本的に』と書く辞書を探す旅」『四次元ことばブログ』
- 上記ブログの著者は30種以上の辞書を調査。結局見つからなかったとのこと。
- 神永曉.(2017年5月22日).「辞書編集者の『そもそも』考」『日本語、どうでしょう?』
- ながさわ.(2017年4月19日).「 安倍首相の辞書はどれだ! 『そもそも』を『基本的に』と書く辞書を探す旅」『四次元ことばブログ』
- 安倍首相の「そもそも」に関する発言について民進党の議員が発した質問主意書。
- 第193回国会 264 「そもそも」の意味として「基本的に」と記載している辞書に関する質問主意書
- 第193回国会 307 「そもそも」の意味として「基本的に」と記載している辞書に関する再質問主意書
- 第193回国会 313 安倍総理が実際に「そもそも」を大辞林で調べたのかに関する質問主意書
- 第193回国会 341 安倍総理が実際に「そもそも」を大辞林で調べたのかに関する再質問主意書