吾輩ハ無職デアル

概要
吾輩は無職である。金はもう無い。だが、欲をいっても際限がないから生涯親の脛をかじって無職の人間で終るつもりだ。

本文

吾輩は無職である。金はもう無い。

どこで職を失ったかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした職場でワンワン泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて職場というものを見た。しかもあとで聞くとそれはブラック企業という職場中で一番獰悪な部類であったそうだ。このブラック企業というのは時々我々を捕えて残業代を払わずに働かせるという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌中にあって終電近くまで働かされた時何だかフラフラした感じがあったばかりである。ここでブラック企業の様子を見たのがいわゆる職場という物の見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一、上司はいつもいらだっていてすぐに怒鳴り出してまるで薬缶だ。その後無職の者にもだいぶ逢ったがこんな沸点の低い連中には一度も出くわした事がない。

このブラック企業の中でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非情なノルマで運転し始めた。ブラック企業のノルマが多いのか自分だけが無能でノルマを達成できないのか分らないが無暗に眼が廻る。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。

ふと気が付いて見ると職場がない。たくさんおった同僚が一人も見えぬ。その上今までの所とは違って天井が無暗に白い。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は救急車で運ばれ急に病院の中へ棄てられたのである。

ようやくの思いで病院を抜け出すと向うに大きなハローワークがある。吾輩はハローワークの前に立ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。しばらくして電話をしたらブラック企業がまた雇いに来てくれるかと考え付いた。ツー、ツーと試みにやって見たが誰も電話に出ない。そのうちハローワークの前の道をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから職の探せる所まであるこうと決心をしてそろりそろりとハローワークの扉をくぐろうとした。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく懐かしい所へ出た。ここへ這入ったら、どうにかなると思ってハローワークの怪しげな求人票から、とある企業の面接にもぐり込んだ。さて面接へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。ここで吾輩は彼のブラック企業以外の職場を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのが人事部の職員である。これは前のブラック企業の上司より一層乱暴な方で吾輩の履歴書を見るや否やいきなりびりびりと破りくずかごへ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかし職がないのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再び人事部員の隙を見て面接場へ這い上った。すると間もなくまた門前払いされた。吾輩は門前払いされては這い上り、這い上っては門前払いされ、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時に人事部と云うものはつくづくいやになった。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この会社の社長が騒々しい何だといいながら出て来た。人事部員は吾輩の履歴書をぶら下げながら社長の方へ向けてハローワークに出しているのは義理で出しているカラ求人なので面接に受けに来られても困りますという。社長は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんならハローワークの求人は取り下げてしまえ、内は人を雇う余裕がないからといったまま奥へ這入ってしまった。人事部員はうれしそうに吾輩を面接場の外へ抛り出した。かくして吾輩はついに職を得る事に失敗したのである。

職もなく、金もないという有様で吾輩は田舎の実家に戻る事にした。帰ったばかりのころにはおやじもおふくろも喜んでくれたが、だんだんぞんざいに扱われるようになった。実家には吾輩の妹とその旦那が同居している。吾輩の妹婿は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。此奴は社畜だそうだ。夜中に職場から帰ったと思ったら日の明けぬ前から職場に行ったきりで、ほとんど家にいる事がない。家のものは大変な働き者だと思っている。当人も働き者であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は一度彼が外回りの営業をしていると言った日に漫画喫茶で彼を目撃した事がある。漫画喫茶の薄汚れた椅子の上で昼寝をしていた。彼の席にあるPCのディスプレーには下らぬ掲示板のまとめサイトが映されている。彼は精神が弱く顔色がいつも青白く不活溌な徴候をあらわしている。その癖に夜遅くまで働こうとする。夜遅くまで働いた後で栄養ドリンクを飲む。吾輩は無職ながら時々考える事がある。社畜というものは実に楽なものだ。職に就くなら社畜となるに限る。こんなにだらだらとして過ごせるものなら無職にでも出来ぬ事はないと。それでも妹婿に云わせると社畜ほどつらいものはないそうで彼は妹に対して何とかかんとか不平を鳴らしている。

吾輩が実家に戻ってからは、家族にははなはだ不人望であった。どこへ行っても粗大ゴミのように扱われた。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで小学生の甥より小遣いが少ないのでも分る。吾輩は仕方がないから、出来得る限り自分の部屋でごろごろする事をつとめた。朝みなが起きて食事を始める時間になってもまだ部屋で寝る。昼になっても昼寝を続ける。これはあながち寝るのが好きという訳ではないが家族と顔を合わせたくなかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝になってふとんに入り、日の出ている間は眠り続け、夕方からネットゲームを始める事とした。しかし一番心持の好いのは日の変わるころになって深夜アニメを見る事である。アニメと言っても妹の子供、つまり小学生の甥が見るようなアニメとは違う。この子供が見るアニメというのは日の出ているうちに放映される。吾輩はそのような芸術性の低いアニメは見ないのである。子供と言えば、甥っ子は――ことに小さい方が質がわるい――吾輩を見ると無職のおじちゃんが来た無職のおじちゃんが来たといって大きな声で泣き出すのである。すると子供の母親、つまり吾輩の妹が飛び出してくる。わざわざお兄ちゃんを私たちの家に住まわせているんだから子供に八つ当たりをするのはやめてよ、大体仕事を探しに行く探しに行くと言って全然仕事を探しに行っていないじゃないのとひどくしかられた。

吾輩は家族と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が賢明にがんばっているのを早く仕事を探さないのかという妹のごときに至っては言語同断である。しかも吾輩の方で少しでも文句を言おうものなら家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もたまに手伝いをしようと思って昼に起きて居間に掃除機をかけたら妹がこれから友達が来るんだから気持ち悪い顔をお客様に見せないでと非常に怒ってそれから容易に昼は顔を見せられなくなった。吾輩の尊敬するニートのブラブラ君などは逢う度毎に家族ほど不人情なものはないと言っておらるる。ブラブラ君は先日ネットゲームでめったに手に入らないレアアイテムを完全にコンプリートしたのである。ところがそこの親が三日目にネット回線の契約をむりやり打ち切ってそのゲームを遊べなくしたそうだ。ブラブラ君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等無職がゲームの中で自己実現を果たすには家族と戦ってこれを屈服せしめねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。またホームレスのプー君などは世間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。元来我々ホームレス間では風雨を防ぐ段ボールでも古びたコートでも一番先に見付けたものがこれを使う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善いくらいのものだ。しかるに世間の人間は毫もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走を汚らしいと言って必ず彼等のために排除せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が得べきものを奪ってすましている。吾輩は、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら社畜だって、そういつまでも働く事もあるまい。まあ気を永く無職の時節を待つがよかろう。

吾輩は御馳走も食わないがジャンクフードばかり食っているからますます肥えているが、どうせ外に出ないから肥満はまずまず問題にならずにその日その日を暮している。仕事は決してしない。仕事は未だに嫌いである。金はもう全然ないが、欲をいっても際限がないから生涯親の脛をかじって無職の人間で終るつもりだ。

注意書き

この物語はフィクションです。