羅生門―ポスドク編

概要
衰微した平安朝の下人の話ならぬ、衰微した平成朝の下人、もといポスドクの話。校門に捨てられたポスドクが、薄汚れた研究室で見たものとは?

本文1

ある日の暮方の事である。一人のポスドクが、大学の校門の下で雨やみを待っていた。

広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々塗装の剥げた、大きな鉄柱に、蟋蟀が一匹とまっている。校門が、キャンパスの入口にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする学部生や大学職員が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

何故かと云うと、この十数年、学術界には、大学院重点化とか学力低下とか国大法人化とか事業仕分けとか云う災がつづいて起った。そこでキャンパス内のさびれ方は一通りではない。旧記によると、博士論文や貴重書籍を打砕いて、そのハードカバーがついたり、箔押の金文字がついたりしたものを、路ばたにつみ重ねて、キムワイプの代わりに売っていたと云う事である。キャンパス内がその始末であるから、校門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。学術界の荒れ果てたのをよい事にして、自称研究者が棲む。捏造教授が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない院生を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

作者はさっき、「ポスドクが雨やみを待っていた」と書いた。しかし、ポスドクは雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、研究室へ帰る可き筈である。所がその研究室の教授からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時学術界は一通りならず衰微していた。今このポスドクが、永年、使われていた教授から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「ポスドクが雨やみを待っていた」と 云うよりも「雨にふりこめられたポスドクが、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平成朝のポスドクの Sentimentalisme に影響した。4限がはじまったあたりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、ポスドクは、何をおいても差当り今後の業績をどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきからキャンパスにふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。ポスドクの考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。ポスドクは、業績のためなら手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「業績のために剽窃するよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

本文2

見ると、研究室の内には、噂に聞いた通り、幾つかの院生が、 無造作に棄ててあるが、明滅する蛍光灯の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に生きる希望を失った院生と、最初から絶望的な院生とがあるという事である。

ポスドクは、それらの院生の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

ポスドクの眼は、その時、はじめてその院生の中で作業している人間を見た。檜皮色になった白衣を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老研究者である。その老研究者は、右の手に電源をつけたノートパソコンを持って、その画面を覗きこむように眺めていた。すると老研究者は、ノートパソコンに、実験データの入ったUSBメモリを挿して、それから、そのデータの値を一つずつ変えはじめた。データはキーの動きに従って変わるらしい。

そのデータが一つずつ変わるのに従って、ポスドクには、この老研究者に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老研究者に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる研究の不正に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。

ポスドクには、勿論、何故老研究者が実験データを変えるかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかしポスドクにとっては、この雨の夜に、実験データを変えると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、ポスドクは、さっきまで自分が、 剽窃する気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。

そこで、ポスドクは、大股に老研究者の前へ歩みよった。老研究者が驚いたのは云うまでもない。老研究者は、一目ポスドクを見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。

「おのれ、どこへ行く。」

ポスドクは、老研究者の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。そこで、ポスドクは、老研究者を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

「己は行政刷新会議の仕分け人などではない。今し方この実験室の下を通りかかった者だ。ただ、今時分この実験室で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」

すると、老研究者の喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、ポスドクの耳へ伝わって来た。

「この数値を変えてな、この数値を変えてな、良い結果に見せようと思うたのじゃ。」

ポスドクは、老研究者の答が存外、平凡なのに失望した。老研究者は、片手に、データ変更に使ったノートパソコンを持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

「成程な、数値を変えると云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、現在、わしが今、変更したデータを作った研究員などはな、捏造データを、新発見だと云うて、新聞社へ売りに往んだわ。露見せなんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この研究員の売るデータは、スクープになると云うて、記者どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この研究員のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの研究員は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

老研究者は、大体こんな意味の事を云った。

「きっと、そうか。」

老研究者の話が完ると、ポスドクは嘲るような声で念を押した。

「では、己が剽窃をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

ポスドクは、すばやく、老研究者の論文を剥ぎとった。 それから、足にしがみつこうとする老研究者を、手荒く実験室の床の上へ蹴倒した。ポスドクは、剥ぎとった論文をわきにかかえて、またたく間に急な階段を夜の底へかけ下りた。

ポスドクの行方は、誰も知らない。

注意書き

この物語はフィクションです。