近代的グラフの発明者ウィリアム・プレイフェア

概要
棒グラフ・線グラフ・円グラフという3種の近代的グラフを発明したウィリアム・プレイフェアという人物の伝記。何とも波瀾万丈な人生。

はじめに

プレイフェアの3種のグラフ
プレイフェアの3種のグラフ

棒グラフ、(折れ)線グラフ、円グラフ。現在、普通の社会生活を送っていて、これら3種類のグラフに触れない日はないだろう。新聞やニュース雑誌を開けば、きっとこれらのグラフのどれか1つが載っている。

実は、この3種類のグラフは、ある特定の個人によって発明されたものである。この人物とは、ウィリアム・プレイフェア(William Playfair, 1759-1823) である。彼はスコットランド人で、啓蒙の時代から産業革命の時代にかけて、技師をやったり、銀細工師になったり、経済学の研究をしたり、事業に失敗したり、フランス革命に参加したりしていた。要するに取るに足らない「冒険家」であった。しかし、この冒険家が、近代的グラフを発明するという偉大な業績を残したのである。今日は、このウィリアム・プレイフェアについて紹介していきたい。

少年期

ウィリアム・プレイフェアは、1759年9月22日に、スコットランドのダンディー (Dundee) という町の近くのリフ (Liff) というところ [1] で生まれた。産業革命が始まる前夜、啓蒙の時代のことである。双子の弟として生まれたが、双子の兄のチャールズ (Charles) は1歳になる前に死んだ。父はジェームズ (James) は牧師であり、その4番目の息子 [2] だったと伝えられる。母の名は、マーガレット・ヤング (Margaret Young) という。

ウィリアムは父ジェームズから教育を受けていたが、1772年父ジェームズが亡くなる。これ以降、ウィリアムの教育は、ウィリアムの長兄であるジョン・プレイフェア (John Playfair, 1748-1819) が担うことになる。

ジョン・プレイフェア
ジョン・プレイフェア

ここで、長兄ジョンがどういう人なのか簡単に触れておこう。ジョンは1748年に生まれたというから、ウィリアムより11歳年上である。ジョンは、エジンバラ大学で数学の教授を務め、教会の仕事もしていた。後で見るようにウィリアムは破天荒な人物なのだが、それと全く違って、ジョンは誠実で真面目な人間であったようだ。

ジョンの数学者としての功績としては、ユークリッドの第五公準 [3] が平行線公理 [4] と同値であると示したことが挙げられる。近代地質学の開祖の1人であるジェームズ・ハットンの業績をわかりやすく解説し直したのも、ジョンだ。さらに、ジョンはエディンバラ王立協会設立時の最初の会員の1人である。後にはロンドン王立協会の会員にもなっている。

すごいじゃないか、ジョン。後で詳しく述べるが、弟のウィリアムはどちらかと言えばダメ人間であり、兄のジョンとは全然違う。兄弟と言っても、それぞれ異なるのである。

なお、ウィリアムの兄には、ジェームズ・プレイフェア (James Playfair, 1755-1794) という人 [5] もいる。この人は新古典主義の建築家であったそうだ。

さて、ウィリアムの兄の話はこの辺にして、ウィリアムの話に戻ろう。ウィリアムは、アンドリュー・ミクル (Andrew Meikle) という人の下で、徒弟奉公することになる。ミクルは、脱穀機の発明者である。その後、ウィリアムは技師として働いていくことになる。

ジェームズ・ワット
ジェームズ・ワット

1777年、ウィリアムは、バーミンガムに行き、ボールトン・アンド・ワット (Boulton & Watt) という会社 [6] で製図師として働き始める。このボールトン・アンド・ワットという会社の「ワット」は、蒸気機関を改良したあのジェームズ・ワットのことである。ボールトンという企業家が、ワットの蒸気機関を売るために、ワットと一緒にボールトン・アンド・ワットという会社を作ったのである。ボールトン・アンド・ワット社は、当時、有能な若い人材を探していたようで、ウィリアムに白羽の矢が立ったのである。ウィリアムはそこで製図の仕事をしたほか、ワットのアシスタントとしても働いていた。製図は結構うまかったそうだ。製図の経験は、後にグラフを作成する際にも役だっただろう。

おそらく1779年に、メアリー・モリス (Mary Morris) という女性と結婚し、翌80年にはジョン (John) という息子をもうけている。1790年には、アンドリュー (Andrew) という息子が生まれている。この他、3人の娘が生まれたそうだ。

ある種の冒険家として

1782年、ウィリアムはワットの会社を辞めた。家族ができて、ワットの会社の給料では生活しづらかったらしい。そして、ワットの会社で得た技術を生かしてロンドンで銀細工の店を開いたそうだ。しかし、この事業は失敗した。

さらに、1787年には、フランスのパリに移住し、そこで商売を始めている。端から見ると、ロンドンで事業に失敗したから、パリに逃げたように見えるのだが、あまり追及しないでおこう。この時期には、例えば、北米のオハイオにフランス人を移民として送る仕事 [7] をしていたりする。ウィリアムは、この仕事で使い込みをしたらしい。大丈夫なのか、ウィリアム。

バスティーユ監獄の襲撃
バスティーユ監獄の襲撃

そして、その2年後の1789年――そう、フランスで大革命が始まった年である――ウィリアムに大きな事件が起きる。時は、1789年7月14日、ウィリアムはパリのバスティーユ監獄を襲撃していた。いわゆるバスティーユ襲撃事件、フランス革命の発端となった事件に参加したのである。

ウィリアム、ちょっと待て。なぜスコットランド人が、ちゃっかりフランス革命に参加しているのだ? 周りで革命をやっているから流れで仕方なく参加してしまったというのなら、まだ理解できる。だが、ウィリアム、君は周りに流されたのではなくて、自ら革命を引き起こしてしまっているではないか。それも外国で。どうやら、ウィリアムはバスティーユ襲撃事件以前から、革命に向けての準備をしていたらしい。

1793年、革命の激化に伴い、ウィリアムはフランスを離れ、ドイツのフランクフルトに行く。そこで、フランスからの亡命者に、腕木通信 [8] についての話を聞く。腕木通信は、当時フランスで開発されたばかりの技術であった。ウィリアムは、この腕木通信についての模型を作り、ヨーク公フレデリック [9] に送ったそうだ。その後、ウィリアムは「自分が腕木通信を最初にイギリスに導入した人なんだよね」と吹聴している。ただ、実際のところ、最初に導入したのはウィリアムではないらしい。ウィリアムは全くのほら吹きというわけではないが、自分のやったことを誇大にしがちな人物であるのは間違いない。

さて、なんだかんだで1793年、ウィリアムはロンドンに戻り、そこに1814年まで住み続けることになる。ロンドンに戻ってすぐに銀行業を始めるが、これも早々と失敗する。失敗を続けながらも新しい事業を始める点は、良い根性をしていると言える。だが、端から見れば、単なる冒険野郎である。

1790年代半ばからは、主に著述を生業とするようになり、様々な書籍を書いた。また、技術者としての仕事もしていたようで、砲架の作成に携わったりもしたそうだ。もっとも怪しい仕事も続けており、1805年には詐欺で有罪判決を受けている [10]

近代的グラフの発明

ここまでウィリアムの冒険家ぶりばかり書いてきたが、ウィリアムは単なる冒険野郎ではない。棒グラフ、(折れ)線グラフ、円グラフといった近代的グラフを発明したという極めて重大な功績を挙げているのである。ここでは、これらのグラフをウィリアムがどのように用いたかを見たいと思う。

なお、以下のウェブサイトに、ウィリアム・プレイフェアの描いたグラフのリプリントが多数掲載されているので、参考にされたい。

棒グラフと線グラフ

ルイ16世
ルイ16世

ウィリアムは、1786年に出版した The Commercial and Political Atlas という本で、棒グラフと線グラフを世界で始めて用いた。この本は、イギリスと諸外国の間の貿易などに関する統計をまとめた書籍である。

この本は、フランスの国王ルイ16世 [11] も読んだそうで、当時、王は「この図、すごく分かりやすいね」と言ったそうだ。ウィリアム自身がそう書き残している [12] 。ルイ16世が言ったことをウィリアムが知りえたとは思えないから、信用できるかは分からない。個人的な意見だが、ウィリアムが今生きていたとしたら、自分の本の帯に「フランス国王も絶賛!」と無許可で書きそうな気がする。

以下に掲げるのが、The Commercial and Political Atlas に載った世界で最初の棒グラフである。この棒グラフは、スコットランドの輸出入について表したものであり、地域ごとに棒が立っている。

プレイフェアの棒グラフ
プレイフェアの棒グラフ

The Commercial and Political Atlas には、線グラフも載っている。以下の図は、デンマーク・ノルウェーとイングランドとの間の貿易の時系列データを示したものである。橙色の線が輸入、紫色の線が輸出を示している。このように図示すると、入超から出超に変化したのが一目瞭然である。数値を並べた表では、こんなにすぐには分からなかったものが、グラフにすると簡単に分かるようになったのである。

プレイフェアの線グラフ
プレイフェアの線グラフ

円グラフ

1801年にウィリアムは Statistical Breviary という書籍を出し、この本で世界で初めての円グラフを用いた。この Statistical Breviary というタイトルは、和訳すれば『国勢要覧』とでもなるだろうか。この本は、世界の様々な国々の政治・社会について統計データを挙げたものである。“statistical”は現代では「統計に関する」という意味になるが、この時代では「国家(の状況)に関する」という意味で用いられていた。“statistical”の冒頭の“stat-”はまさしく“state”(国家)のことなのである。

プレイフェアの円グラフ
プレイフェアの円グラフ

左に掲げるのが、Statistical Breviary に挙げられた円グラフである。このグラフは、オスマン帝国 (Turkish Empire) の領土面積について示したもので、大陸ごとの面積の比率が記されている。右上を占めるのがヨーロッパ部分 (European) の面積を示す扇形、下半分を占めるのがアジア部分 (Asiatic) の面積を示す扇形、左上を占めるのがアフリカ部分 (African) の面積を示す扇形である。比率の表し方は、現在の円グラフと何ら変わりがない。

なお、ウィリアムは円グラフ以外にも円を使ったグラフを描いている。1つの例として、大小比較のために円を使ったグラフがある。例えば、人口の多い国の円は大きく描き、人口の少ない国の円は小さく描くことで、各国の人口の多寡を分かりやすく示そうとした。別の例として、集合関係を表すためのベン図を描いた例もある。

その他の特徴

ウィリアム・プレイフェアのグラフは、現代のグラフが備えている特徴をほとんどそろえている。普通、開発されたばかりのものは、機能的に必ずしも満足のいかないことが多いものだが、ウィリアムのグラフはそうではなかった。最初から完成形となっていたのである。

黄金比(1:1.61803...)
黄金比(1:1.61803...)

例えば、ウィリアムの作ったグラフは、ほとんどが横長のグラフであり、縦長のグラフはほとんどない (Tufte, 2001:188)。人間は横長のグラフの方が読み取りやすいと言われているので、これは理にかなっている。また、グラフの縦と横の長さの比を見ると、大体が黄金比に近いものとなっている。黄金比に近づけた方が見やすくなると言われているので、この点も理にかなっていると言えよう。

また、上に挙げたウィリアムの棒グラフ・線グラフを見れば分かるように、グラフの軸や補助線、目盛りなど、グラフの読み取りに欠かせない補助装置がしっかりと備わっている [13] 。また、グラフにはしっかりとタイトルが付けられ、グラフに続くページで詳しい解説が書かれている。現在、グラフを描いたら描きっぱなしで、ちゃんとしたタイトルや解説を書かないで済ませておく人が少なくないが、ウィリアムを見習ってしっかりと記しておきたいところである。

何に着想を得て、これらのグラフを編み出したのか?

棒グラフ、線グラフ、円グラフといった近代的グラフは、ウィリアムの独創と言っても過言ではない。ウィリアムより前に、こうしたグラフを描いた人は皆無と言って良いだろう。もっとも、全くのゼロからの創始というわけではなく、グラフ作成の着想を得たと考えられる事柄がいくつか存在する。

例えば、ジョゼフ・プリーストリー (Joseph Priestley) [14] という人が、A Chart of Biography という本で、以下のような歴史上の人物の生きていた期間に関する図を描いている。以下の図で、1つの棒が、1人の人物の人生に対応するわけである。

プリーストリーが描いた歴史上の人物の生きていた期間に関する図
プリーストリーが描いた歴史上の人物の生きていた期間に関する図

この図から着想を得て、ウィリアムは棒グラフを編み出したと考えられる。もっとも、プリーストリーの図とウィリアム・プレイフェアの棒グラフの表す内容は相当かけ離れており、やはり棒グラフの発明はウィリアムの独創による面が非常に大きいと言えるのではないだろうか。

円を用いたグラフをウィリアムが思いついたのは、兄のジョンの薫陶があったためかもしれないという説がある (Spense, 2005)。先に述べたように、兄のジョンは数学者であり、論理・集合関係を表すためのベン図 [15] に慣れていたと考えられる。このことから、ウィリアムもベン図に慣れ親しんでいたのではないか、ということだ。

グラフはどう広まったか?

ウィリアム・プレイフェアが開発したグラフは、かなり有用なものである。それにもかかわらず、イギリスではなかなか普及しなかったらしい (Spense, 2005)。その理由の1つとして、ウィリアムが人間として評価が低かったことが挙げられる。普段の行いが良くないと、たとえ良いものを開発したとしても、認められないというわけだ。

これに対して、ヨーロッパ大陸では、19世紀の初めから近代的なグラフが広まったそうだ。

晩年

1814年、フランスでナポレオン1世がエルバ島に追放され、ブルボン王朝が復活した。翌1815年、ナポレオン1世はエルバ島を脱出 [16] し、フランスの皇帝に復位したが、ワーテルローの戦いで破れ、再び退位することとなった。ブルボン家によるフランス復古王政が始まったこのころ [17] 、ウィリアム・プレイフェアはパリに引っ越した。

ウィリアムは、パリのガリニャーニ (Galignani) 書店 [18] が出していたガリニャーニズ・メッセンジャー (Galignani’s Messenger) という日刊紙 [19] の編集者として働き始めた。しかし、ウィリアムは1818年にパリを離れ、ロンドンに戻っている。これは、ガリニャーニズ・メッセンジャーで扱った記事に関して訴えられて3ヶ月の懲役刑の判決が下されたことを受け、投獄されないようにフランスを離れたためである。

その後、ウィリアムは、ロンドンで貧乏な暮らしを続ける。そして、1823年2月11日にロンドンで死んだ。ウィリアムの業績は、19世紀末までほとんど忘れられていたようで、グラフを作った偉大な人物として再評価がなされるのは20世紀以降である (Symanzik et al., 2009)。

ウィリアムの子のアンドリュー・W・プレイフェア (Andrew William Playfair, 1790-1868) は、イギリス軍に入り、その後カナダに移住する。そして、アンドリューはカナダで成功し、プレイフェアヴィル (Playfairville) という村 [20] を作り、そこに自分の兄弟を呼び寄せた。今でもウィリアム・プレイフェアの子孫はカナダにいるとのこと (Spence & Wainer, 1997)。

参考文献

脚注
  1. リフは、今の地図で見ると、ダンディーの町の中心部から10km と離れていないようだ。 []
  2. ジョン、ジェームズ、チャールズ、ウィリアムの順に生まれた。姉妹も含めると、父ジェームズの8人の子どものうち5番目の子となる。 []
  3. 1つの直線に交わる2つの直線の同じ側の内角の和が2つの直角より小さければ、この2つの直線を限りなく延長すると、その側において2つの直線は交わるという公理。 []
  4. 1つの直線とその直線上にない1つの点があるとき、その直線と平行でその点を通るような直線がただ1つ存在するという公理。 []
  5. 父の名前と同じだが、父子で同じ名前をつけることは珍しくない。 []
  6. なお、この頃のボールトン・アンド・ワット社に関するアーカイブがウェブ上で “Industrial Revolution: A Documentary History Series One: The Boulton & Watt Archive and the Matthew Boulton Papers from the Birmingham Central Library” として公開されている。ウィリアム・プレイフェアもちょこちょこ登場する。 []
  7. この時代に移民を送るというのは、「ちょっと、そこのお兄さん、生活が苦しいって? 新大陸は暖かいし、食べるものも心配は要らないし、もう乳と蜜が流れる楽園みたいなところだよ。なんと、当社では格安で新大陸に連れて行って……」とかそういうノリ。つまりは、そういうことだ。 []
  8. 腕木通信とは、大がかりな手旗信号のようなものである。普通の手旗信号は人間が旗を振ることでメッセージを伝えるが、腕木通信では数メートルの棒を動かしてメッセージを伝える。 []
  9. イギリス王ジョージ3世の次男。 []
  10. その後、ゆすりをしたこともある。君はどこで人生を間違えたのか……。 []
  11. フランス革命で殺された国王。ルイ16世は、イギリスの本を読むのが好きだった。 []
  12. ウィリアムが死の直前に、“As his majesty made Geography a study, he at once understood the charts and was highly pleased. He said they spoke all languages and were very clear and easily understood.” 〔Heyde et al. (2001:109) より孫引き〕と書いたそうだ。 []
  13. ウィリアムのグラフは、補助線などが多すぎる嫌いがあるので、現代的な見方からするともう少しシンプルにしたいところである。 []
  14. イギリスの科学者で、酸素を発見したことで有名。歴史の本なども書いている。 []
  15. 「ベン図」の「ベン」とは19世紀の論理学者ジョン・ベン (John Venn, 1834-1923) のことだが、ベンが生まれる前からこうした図は使われていた。 []
  16. ウィリアムは、「ナポレオンがエルバ島を脱出しそうだってことをイギリス政府に教えたのは実は私なんですよ」とか言っていたそうだ (Alger, 1896) が、これはホラではないだろうか。たとえウィリアムが実際にイギリス政府に対してそのようなことを伝えていたとしても、ウィリアムのような信用のおけない経歴を持つ人物の言葉を誰が信じるであろうか。 []
  17. ウィリアム・プレイフェアがパリに移った時期について、Spense (2004) は1814年としているが、Alger (1896) はワーテルローの戦いの後、すなわち1815年としている。 []
  18. ガリニャーニ書店は、英語の書籍を扱う書店兼出版業者。書店と言っても本を売るだけでなく、会費を取って店の中で本を読ませるという有料図書館のようなこともしていた。英語の書籍を扱う店としては、ヨーロッパ大陸では最も古い。今もまだパリにあるそうである。 []
  19. 1814年創刊。 []
  20. プレイフェアヴィルは、オンタリオ州に属し、オタワの南西75kmのところにある。 []